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数日後、章吾は伊西家からの迎えの車に乗っていた。
大通りを走行する車内からも、道を行き交う人々の顔を確認している。
千尋が行方不明になって、二週間。
今も安否は不明だが、章吾たちは千尋はもう都には居ないのではないかと思い始めていた。
二度汽車に乗った千尋は、切符の買い方も乗り方も知っている。
三条家の影響力を知っている彼女が、都に留まり続けるはずがない。
汽車に乗って、おそらく上方あたりへ行ってしまったのだろうと章吾は考えていた。
(もう、会えないのだな……)
店は辞めても、同じ都にいれば会える機会はいくらでもあった。
しかし、千尋が都を離れてしまえば、再会できる可能性は無いに等しい。
千尋へ簪は渡したが、結局、自分の気持ちは伝えなかった。
笑顔で受け取ってくれた彼女へ思わず「私と一緒になってくれないか?」と言いそうになったが、ぐっと堪えた章吾。
店を離れる千尋を、困らせたくはなかったのだ。
◇
伊西家の別邸は、煉瓦造りの立派な洋館だ。
車寄せで自動車を降りた章吾は、そのまま庭園へ案内される。
使用人によると、金柑の木に虫が付いているのではないかとのことで、さっそく章吾は膝をつき低い位置から幹の観察を始めた。
拡大鏡で虫の侵入口がないか確認をしたところ、小さな穴を見つけたためすぐに薬剤を注入し、幹に空いた穴もしっかりと埋めておく。
その後も時間をかけて幹を念入りに観察していったが、他に異常は見つからなかった。
発見が早かったため、木への被害は最低限に抑えられたことに安堵する。
(それにしても、こんな小さな穴をよく見つけたものだ……)
伯爵家だけあり、お抱えの植木屋がよほど優秀なのだろう。
章吾は舌を巻いた。
そんな彼のもとへ、足音が近づく。
「お仕事、ご苦労様です……高鷲せんせー」
聞き覚えのある声に後ろを振り返ると、そこに立っていたのは御神木のときに出会ったキクだった。
しかし、彼女が着ているのは野良着ではなく着物。それも、一見しただけで高級品とわかるもの。
章吾は、瞬時に彼女の正体を理解する。
「あなただったのですね……伊西菊乃さま」
前伯爵夫人であり、現伯爵の生母である伊西菊乃その人だった。
「高鷲せんせー、御神木の件では世話になりましたね」
「こちらこそ、ありがとうございました。知らぬこととはいえ、前伯爵夫人さまに対するご無礼をお許しください」
「ホホホ……せんせー、そんな堅苦しいことは無しですわ。それより、今日は千尋くんは?」
「……事情がありまして、彼は助手を辞めました」
「あらあら……二人はとても良い組み合わせでしたのに」
キクから、千尋が辞めた件についてもっと突っ込まれるかと思っていた章吾だが、意外にもそれ以上の追及はなかった。
「まあ、立ち話もなんですし、お茶を用意していますから、どうぞ屋敷の方へ」
「ありがとうございます」
道具を片付け手を洗った章吾は、菊乃の後についていく。
「せんせーにお見せしたいものがありまして……『温室』ですのよ」
「温室ですか。何を育てられているのですか?」
「仙人掌です。亡くなった主人が、好きだったの……」
「仙人掌……」
千尋がいれば、さぞかし興味津々だったのだろうなと、キクと会話を交わしながら章吾は思った。
伊西家の温室は屋敷の南側にあり、庭から直接出入りができるようになっている。
室内は暖かく、冷えた体には大変ありがたい。
中に置かれたテーブルセットに章吾が腰を下ろしたと同時に、温室内にお茶の用意を持った女性が入ってきた。
「菊乃さま、お茶をお持ちしました」
「ありがとう。では、さっそくせんせーへお出しして……千尋ちゃん」
(……千尋?)
章吾が目を向けた先に立っていたのは、驚きの表情で自分を見つめる千尋だった。
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