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炒り豆に、花が咲く
時は遡り、今から二週前のこと。
いきなり路地裏に引きずりこまれた千尋は、悲鳴をあげようとしたが布で口を覆われてしまう。
突然の出来事に頭は真っ白になり、とにかく逃げなければと手足をバタバタさせ必死の抵抗を試みる。
「あの……」
突然、暗がりから男性の声が聞こえた。
「……今は怪しいことをしておりますが、私たちは決して怪しい者ではございません」
暴れる千尋の耳に届いたのは、丁寧な言葉遣いだが意味のわからない発言をする謎の男の言葉。
「顔を見せますので、声を出さないでくださいね……千尋くん」
(!?)
相手は自分を知っているのに、千尋は声に全く聞き覚えはない。
誰だろう?と少し興味の涌いた千尋は、一旦抵抗を止めた。
暗がりから一人の人物が現れ、目の前に立つと同時に口に当てられていた布が外される。
「お久しぶりでございます、千尋くん……いや、千尋さん」
「あ、あなたは……」
そこに居たのは、意外な人物だった。
◇
路地裏の暗がりから現れた男性が、御神木の依頼で知り合ったキクの息子の勇とわかり、千尋は大層驚いた。
なぜ、彼が都に居るのか? なぜ、野良着姿ではなくスーツ姿なのか? なぜ、こんな怪しいことをしているのか?
疑問は際限なく湧き、勇へ尋ねたが、彼は車の中で話をすると言って歩き出す。
勇に付いていっても大丈夫なのかと不安になったが、「このままでは、いずれ彼らに見つかりますよ」と彼は事情も把握している様子だった。
結局、千尋は素直に従い車に乗りこむ。
車は高鷲家の自家用車以上に豪華な内装で、明らかに場違いな自分が落ち着かない。
車内で、勇は約束通り説明を始めた。
これから向かうのはキクの私邸で、自分はキクの息子ではなく秘書をしていること。
キクは農民ではなく、伊西菊乃という華族であること。
たまたま夏の休暇で遠戚の別邸に滞在していたときに、神社の氏子である遠戚から御神木の話を聞き、興味本位で身分を隠して千尋たちと接触したこと。
初対面のときから、千尋が女性であるとわかっていたことなどを勇は話し終える。
「どうして、私が逃げていることをご存知なのですか?」
「菊乃さまは、余程あなたのことが心配だったのでしょう。都へ戻られたあとも千尋さんのことを気にかけていらっしゃって、私に調査を命じれられたのです。あなたが正式に高鷲家で働き始めたこと、三条家へ連れ戻されたことも把握されています。もちろん……婚約話も」
「そうだったのですか」
「このままでは千尋さんが不本意な結婚をさせられ、三条家にいいように利用されてしまうと判断した菊乃さまが、あなたを保護することを決められたのです。それで、ご実家までお迎えにあがったのですが、残念ながら一足違いで……」
千尋の行方を捜していた勇は、『どんな手段を講じてもよいから、三条家よりも先に発見し保護せよ!』とキクから厳命を受ける。
かくして、この強引な手段が決行されたのだった。
◇
車から降りた千尋は、建物を見上げる。
煉瓦造りの洋館は、まるで街にある会館のように大きくて立派だ。
千尋は「ほお…」と感嘆のため息を吐くと、勇に続いて恐る恐る中へ足を踏み入れる。
正面玄関を入ってすぐ目に飛び込んできたのは、床に敷かれた真っ赤な絨毯だ。
綺麗に掃除がなされていて、そのまま土足で上がるのが非常に躊躇われるほど。
真っ直ぐに続く絨毯の端のほうを歩き、勇の案内で千尋は二階へとあがっていく。
階段の踊り場には採光用の窓が付いているのだが、通常の硝子とは違い色が付いていた。
「綺麗な硝子ですね」
「そちらは、『ステンドグラス』という異国から入ってきたもので、家紋が意匠となっております」
「すてんどぐらす……」
初めて耳にする聞き馴染みのない言葉を反復しつつ、勇に置いていかれないように千尋は歩みを進める。
「こちらで、主がお待ちです」
勇はノックのあと重厚な木製の扉を開け、千尋を促す。
部屋の中にいた着物姿の女性が、千尋を見るなりにこりと微笑んだ。
「わたすの屋敷に、よくござったねえ……『千尋くん』こと、京千尋ちゃん」
「お久しぶりです……キクさん」
鳥打帽を取り、千尋はキクこと伊西菊乃へ頭を下げた。
◇
千尋の前に並べられているのは、暖かい食事。
しかし、見たことも食べたこともない異国の料理ばかりだ。
スプーンは使ったことのある千尋でも、初めて使用するナイフとフォークに悪戦苦闘中。
キクの所作を見よう見まねで『ビーフステーク』と呼ばれる牛肉の塊を切ろうとするのだが、なかなか上手くいかない。
「……菊乃さま、私が千尋さんのお手伝いをして差し上げても、よろしいでしょうか?」
キクの後ろに控えていた秘書…片桐勇が、声をあげた。
「あらあら、片桐はそんな気が利く子だったのねえ……」
「我が儘な主にいろいろと振り回されておりますので、嫌でも鍛えられるかと」
勇は慣れた手つきで千尋の肉を一口サイズに切り分けると、「千尋さん、冷めないうちにどうぞ」と言った。
「あ、ありがとうございます」
千尋は一切れの肉をフォークに差し、パクりと口に入れる。
「美味しいです」
「こちらのビーフカリーも、お薦めですよ」
目を輝かせながら食事を始めた千尋を微笑ましく眺めていたキクは、戻ってきた勇へ意味深な視線を送る。
「おまえがそんなに優しかったなんて、全然知らなかったわ……」
「どなたとは申しませんが、秘書がやるべき仕事ではないことまで強制してくる方よりは、優しく親切にするのは当然でございますよ。たとえば───」
勇は遠い目をしながら、つらつらと並べ立てる。
「……『か弱い女性を、誘拐同然に屋敷に連れてこさせる』とか『農家の息子のフリをして、荷馬車の操縦をさせる』とかですね」
「だって、片桐は器用だから何でもできてしまうのよ」
「いいえ。私は、菊乃さまのように似非方言は話せませんよ」
二人の会話に耳を傾けながら、千尋はもぐもぐと口を動かしている。
だから、あのときの勇はずっと無言だったのか…と納得しつつ、食事の手は決して止めない千尋だった。
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