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「その鉢植えを……全部くれ」
「ありがとうございます!って…あれ、先日の方じゃないですか?」
いつものように手拭いの上から日除けの麦わら帽子を被った千尋は、目の前に立つ人物をまじまじと見つめる。
荷台の中には、今日はまだ数個の鉢植えが残っていた。
「もしかして……」
「ああ、君の勝ちだ。悔しいがな」
章吾の選んだ鉢植えは大きな花が咲いたが、二、三日ですぐに萎んでしまった。
しかし、千尋が一番に選んだものは綺麗な花を咲かせたあと、一週間経った今でも綺麗な状態を保っている。
そして、彼女が二番目だと言っていた鉢も、一週間ほど綺麗な花を咲かせていた。
賭けの結果は、章吾の見事な完敗だったのだ。
「わざわざ結果の報告と、口約束なのに買いに来てくださるなんて、お客さんは律儀な方なんですね」
ほお…と感嘆のため息を吐き、素直に尊敬のまなざしを向ける千尋の純粋さが、章吾にはこそばゆくて仕方ない。
年下相手にムキになった大人げない自分が、非常に恥ずかしかった。
「それで、勘定は幾らだ?」
「あの……買った鉢植えは、どうされるのですか?」
「全部家に持って帰って、きちんと世話をするぞ。姪が好きなんだ」
「そうですか、姪御さんのために……」
腕を組み少し考えこんでいた千尋は、顔を上げる。
「今、ここにある鉢植えは五つです。しかし、花の種類としては二つしかありませんから、店に寄って全部違う花に変更してもいいですか? お代は同じにしておきますので」
「そうしてもらえるのなら、こらちとしても有り難いが……」
せっかくなら、様々な種類があったほうが加代も喜ぶだろう。
章吾は千尋の申し出を受け入れ、店までついて行くことにした。
千尋の店は小規模店が軒を連ねる一角にあり、老婆が店番をしている。
「おや、千尋ちゃん。今日は帰りが早いんだねえ」
「おばあちゃん、ただいま。おじいちゃんは、まだ帰ってきていないのね……そうそう、こちらのお客さまが全部買ってくれたんだよ!」
「あらあら、それは有り難いことで……」
ナンマイダ、ナンマイダ…と章吾に向かって拝みだした老婆を気にも留めず、千尋は店頭に並ぶ鉢植えをササッと代八車へ積んでいく。
章吾が荷台を覗くと、サクラソウやシャクヤクのほかに万年青などもあった。
「こちらでよろしいですか?」
「うん、問題ない。では、これが代金だ」
「はい、確かに。じゃあ、おばあちゃん、お客さまの家まで届けてくるね」
「……君が運ぶのか?」
「もしご迷惑でしたら、こちらに取りに来ていただいても構いません。もしくは、紐で縛りますので、お客さまが肩から吊り下げて帰られますか? 結構重いと思いますが……」
そう言うと、千尋は章吾の服へちらりと視線を送る。
今の章吾は仕事帰りであり、きちっとした服装をしている。
山高帽を被り、長袖シャツにズボン、ベストの上から上着を羽織ったスーツ姿の章吾が鉢植えをぶら下げていては、奇異に見られるだろう。
それに、綺麗な服が汚れてしまうと千尋は心配した。
章吾は章吾で、協力を仰ごうかとある男の顔が頭に浮かんだが、あとで文句を言われそうだと思い直す。
先日の三つを通りまで運ぶだけでも疲労困憊状態だった章吾は、今日は素直に千尋の厚意に甘えることにした。
「では、手間をかけるが、家まで頼む」
「はい、喜んで!」
千尋は笑顔で引き受けた。
◇
「はあ……これは、見事な庭園ですね」
庭をぐるりと見回した千尋の瞳は輝いている。
立派な高鷲家の屋敷には目もくれず、ただ庭園に植えられている植物だけを熱心に見ていた。
「適度に手入れがなされているので、庭木たちはどれも元気です。それに、果樹まであるなんて……」
庭の隅に植えられているビワの木は鈴生りで、もうすぐ収穫の時期を迎えそうだ。
「弟が植木屋を生業としているからな、庭の手入れは欠かさない」
「なるほど、そうでしたか……ん?」
千尋が目を留めたのは、ある低木。
遠巻きに木を観察したあと、千尋は精神を集中させ感覚を研ぎ澄ましていく。
「あの薔薇の木が、何か気になるのか?」
食い入るように見つめたまま身動ぎ一つしない千尋に、章吾が声をかけた。
「……弟さんへお伝えください。早急に、害虫の駆除をするようにと」
章吾へ向ける千尋の瞳は、真剣だった。
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