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キクに保護された千尋は、伊西家の別邸に滞在していた。
いつまでも、ここで世話になるわけにはいかない。ほとぼりが冷めたら、追っ手の来ない上方へ逃れるつもりだと話す千尋に、キクは「今は、まだ時期尚早だ」と笑う。
「でも、本当は上方になんか行きたくはないのでしょう?」
「……私が居れば、ご迷惑をかけてしまいますので」
「また、高鷲家に戻りたいのかい?」
「…………」
「その着物、高鷲のお嬢様とお揃いだそうね。相当、千尋ちゃんに懐いていたって聞いているわ」
「高鷲家の皆様には、大変よくしていただきました」
千尋が実家を出てから、すでに一週間が経っていた。
加代たちへ手紙を書くと約束したのに、まだ果たせていない。
もしかしたら、三条家が自分の行方を高鷲家へ尋ねているかもしれない。
皆へ余計な心配をかけているかもしれないことに、千尋の胸は痛む。
「ずっと髪に着けているその簪、贈り主は……高鷲せんせーかしら?」
「仕事のお礼で頂いたものを、助手への餞別として頂きました」
「男性が女性へ簪を贈る意味を、千尋ちゃんもわかっているわよね? それを受け取って、身に着ける意味も……」
「…………」
今なら千尋にも、萱場で出会ったあの女学生の気持ちがよくわかる。
大切な人からの贈り物が嬉しくて、毎日肌身離さず身に着けていたら落としてしまった。
必死になって探したけれど、どうしても見つからない。
迂闊な自分に腹が立って、落としたことが悲しくて、贈ってくれた彼に申し訳なくて……
簪を渡したときの、彼女の今にも泣きだしそうな笑顔を思い出す。
千尋は悲しい思いをしたくはないから、度々触れて所在を確認している。
「……この贈り物に、他意はありません」
自分の気持ちに気付いたときから、自身に何度も言い聞かせてきた言葉。
先生が助手へ、餞別として贈ってくれた物。
あの桜の木の枝で出来ているから、章吾は千尋へ渡した……ただ、それだけのこと。
無意識に、簪へ手が伸びる。
今日もあるべき所に無事あったことに、思わず笑みがこぼれた。
◇
この日、千尋は伊西家の温室にいた。
加代と一緒にお邪魔した船橋家にあった硝子部屋より倍以上も広い部屋で、キクが『温室』というものだと教えてくれた。
ここで大事に育てられているのは、千尋が初めて目にした仙人掌という緑色をした棘のある不思議な植物。
毬のように丸かったり、団扇のような形をした仙人掌が物珍しく、つい指で突いてみたくなる衝動に駆られてしまうが、彼らが嫌がるのがわかっているので眺めるだけにしている。
食用にもなるとの勇の話に仙人掌を可愛がっているキクが目を吊り上げて怒り、同じように仙人掌たちも勇へ怒りをあらわにしている様子が可笑しくて、千尋は笑いを堪えるのが大変だった。
勇は「申し訳ありません」と深々と頭を下げて謝罪していたが、一体どんな味がするのだろう?と千尋も少々興味を持ったことは内緒の話。
「千尋さん、今日はこちらでしたか」
温室へやって来たのは勇だった。
千尋が、与えられている部屋にいることは少ない。
天気の良い日は、昼間は庭園か温室。雨天時や夜は、書庫で本を読んでいた。
「その本を、いつも熱心に読んでおられますね」
「頂いた大切なものなのです」
千尋が読んでいるのは、章吾から餞別で貰った本だ。
所々に几帳面な字で書き込みがされており、見つけるたびに指でそっと字をなぞれば書き手の顔が思い浮かぶ。
それだけで胸がぽかぽかと温かくなり、笑顔になる。
「今から、菊乃さまがお客様とこちらにいらっしゃいますので、お茶を出してもらえますか?」
「かしこまりました」
厨房でお茶の用意を受け取った千尋は、再び温室へと戻る。
キクは、スーツ姿の男性と席に着いていた。
「菊乃さま、お茶をお持ちしました」
「ありがとう。では、さっそくせんせーへお出しして……千尋ちゃん」
先生と呼ばれる人物へ顔を向けた千尋の動きが止まる。
そこに居たのは、章吾だった。
章吾は信じられないものを見るかのように目を見開き、瞬きもせずにじっと千尋の顔を見つめている。
千尋も、章吾へ何と言えばいいのかわからず、盆を持ったまま微動だにしない。
無言で見つめ合っていたが、先に口を開いたのは章吾だった。
「……行方がわからなくなったと聞いて、心配をしていた。でも、君のことだから、もしかしたら上方へ向かったかもしれないと思っていた」
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした」
「いや、君が無事ならそれでいい……それでいいんだ」
加代とお揃いの着物を着ている千尋に変わりはなく、安堵と喜びの入り交じった気持ちを噛みしめるように章吾は呟く。
髪に桜の簪が見え、面映ゆい気持ちになった。
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