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寄らば大樹の陰
「……そんなことがあったのか」
千尋の話を聞き終えた章吾は、ふう…とため息を吐く。
「やはり、君を三条家へ返すべきではなかった……本当に、申し訳ない」
「そんな、頭を上げてください。章吾さま!」
頭を下げた章吾へ、千尋は慌てた。
これは自分と三条家との問題であって、高鷲家には何の関係も落ち度もない話なのだ。
「いくら高鷲家が大店とはいえ、権力の威光を笠に着た相手では分が悪いわね。せんせー達は、何も悪くないわ」
「菊乃さまには、何とお礼を申し上げればいいのか。千尋さんを助けてくださり、ありがとうございました」
「そんなことは、全然気にしなくてもいいのよ。それよりも、これからどうするのかを考えましょう? そのために、高鷲せんせーに来てもらったのだから」
庭の金柑の木が虫害にあっていると千尋から報告を受けたキクが、これは好都合と章吾へ依頼を出したのだった。
ホホホ…と笑うキクへ、千尋は顔を向けた。
「菊乃さま、やはり私は上方へ向かいます。さすがに三条家も、そこまでは追ってこないでしょうから」
「それがね……三条薬房は、いま本当に危機的状況なの。千尋ちゃんの薬草がなければ、来年には店が無くなっているかもしれないくらい。だから、ついに捜索の手を都の外にも広げるみたいよ?」
「そんな……」
結局、自分は三条家に戻るしか道はないのか。
千尋は、がっくりと肩を落とした。
「私としては、別に薬草を栽培して三条薬房へ卸すことは構わないのです。ただ、彼と結婚をしたくないだけで……」
何も、好き好んで実家を捨てたいわけではない。
できれば大事な薬草園と家を買い戻して、これまでのように暮らしていきたいだけなのだ。
「まだ、店主は今の許嫁と婚約を解消できていないのよ。千尋ちゃんと違って、相手が承諾しないようでね……ということで、今が好機なのよ」
「?」
「千尋ちゃん、片桐の許嫁になりなさい」
「!?」
二人の話を真剣に聞いていた章吾は、あやうく椅子から転げ落ちるところだった。
「えっと……菊乃さま、それはどういうことですか?」
「あなたが先に誰かと婚約してしまえば、無理やり結婚はさせられないということよ。うちの片桐なら、あちらの権力も及ばないわ」
「な、なるほど……たしかに」
キクの言うことにも一理あるな、と千尋は思った。
「き、君は、そのために別の人の許嫁になるというのか?」
「ふふふ……せんせー、これはあくまでも形だけのものよ。なので、別にせんせーの許嫁でもいいのだけれど、確実に高鷲家へ圧力がかかるわよ?」
「それは覚悟の上です。三条家の横暴を、これ以上看過できません。千尋さんは、私たちが守ります」
「絶対にダメです! 章吾さま、どうかお考え直しを!!」
「断る。そもそも、あのとき三条家に屈したのが間違いだったのだ」
高鷲家に迷惑をかけないために出て行ったのに、これでは意味がない。
千尋は何とか章吾を説得しようと試みるが、彼の決意は固く頭を抱える。
そんな二人のやり取りを黙って見ていたキクが、にこっと微笑んだ。
「……合格よ。やはり、わたくしが見込んだせんせーだわ」
キクはカップに残っていた紅茶をすべて飲み干すと、音を立てずにソーサーへ戻した。
それから、二人へ顔を向ける。
「異国には、『目には、目を』という言葉があるの。誰かを傷付けたのなら、当然その報いを受けるべきよね? だから、『権力には、権力を』でね……」
ホッホッホと高笑いするキクの目は、まったく笑っていない。
凄みさえ感じる彼女の迫力に圧倒された、千尋と章吾だった。
◇
家に戻った章吾は、賢吾と大吾へ千尋が無事だったことを報告した。
キクからは、家族だけにならこれまでの経緯も含めて話をしてもよいとの許可を得ているため、御神木の件での出会いから今日の出来事まで包み隠さず話をする。
「まさか、あのばあさんが華族だったとはな……」
「つまり、『華族の遠戚である氏子』の、華族のほうだったってことか」
はあ……と大吾は驚きのため息を漏らし、賢吾は兄弟(特に大吾)の言動に失礼がなかったことに心からホッとしていた。
「とにかく、千尋は元気だったんだよな?」
「ああ、菊乃さまのお屋敷にいれば、三条家でも手は出せないからな」
それなら安心だ……と、大吾は満面の笑顔を見せた。
「それで、これからどうするんだ? 伯爵家の力を貸してもらえるのだろう?」
「その前に、千尋さんが三条薬房の店主へ会いに行くことになった。私と菊乃さまの秘書も同行するから、問題ない」
千尋はどうしても直接話がしたいようで、キクはそんな彼女の気持ちを尊重した。
この話し合いの結果で、今後のことが決まる。
章吾としては、千尋が元許嫁に会いに行くことには複雑な心境だが、何があっても自分が守ると決意を新たにしたのだった。
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