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桐一葉(きりひとは)
千尋が店に現れたと聞き、三条実は急いで応接間へと駆けつけた。
部屋で待っていたのは、三人の男女。
千尋と、その隣に座るスーツ姿の若い男性。そして彼らの後ろに、使用人の恰好をした男性が立っている。
スーツ姿の男性は自分と同年代に見えるが、実には顔に見覚えがなかった。
「お待たせしました。店主の三条実です」
「お初にお目にかかります。私は、高鷲章吾と申します」
実は『高鷲』と聞き、千尋が直近まで奉公していた高鷲材木店の関係者だと思い当たる。
「もしや、彼女をわざわざお連れいただいたのでしょうか?」
兄の秀雄から高鷲家へも照会と協力を仰いだと聞いていた実は、章吾が千尋を見つけ連れてきたのだと思った。
「いいえ。本日は、千尋さんがあなたへお話があるそうなので、私が立会人として同席させていただくことになりました」
「立会人……」
「では、千尋さん。彼へ用件を」
「はい」
神妙な顔つきで、千尋は実を見据える。
「まず、はっきりさせておきたいことです。先日もお話しました通り、私はあなたと結婚するつもりはありません。私たちの関係は、三月に婚約を解消した時点でもう終わったのです」
ここまで一気に述べると、千尋は一度息を吐いた。
「次に、私からの要求を申し上げます」
「私に要求だと?」
眉間に皺を寄せた実に構わず、千尋は言葉を続ける。
「一つ目、私の薬草園と実家を返してください。頂いたお金は、そっくりそのままお返しします。二つ目、このままでは、三条薬房は潰れます。それを回避するために、実さまには今一度、薬師としての修業をやり直していただきたいです」
「お、おまえ……」
「この要求を呑んでいただけるのであれば、私はこれからも三条薬房へも薬草を卸します。私からの話は、以上です」
お茶を一口飲んだ千尋は、実の返答を待ちながら心の中で祈っていた。どうか、実がこの要求を受け入れますように、と。
千尋は、三条薬房が無くなることを望んではいない。
再建することを願っているからこそ、現状を突きつけ実の更生を促しているのだ。
そんな千尋を、章吾は静かに見守っている。
「黙って聞いていれば、一体何様のつもりだ! またしても、偉そうに私へ修業をし直せなどと……」
「薬草の力だけに頼らず薬の効能を上げる技術を磨いていれば、このような事態は避けられたのでは? 先代が、草葉の陰で泣いておられますよ」
「やかましい! まったく、どいつもこいつも……」
実は、前回と今回の件で秀雄から散々叱責を受けている。
静子は、頑として自分との婚約解消を受け入れない。
思い通りにならないことばかりに、我慢の限界がきていた。
「おまえは、黙って私に従っていればいいのだ! 静子と婚約を解消しだい、祝言を挙げる。これは、決定事項だ!!」
「実さまは簡単に『解消』と仰いますが、婚約を解消された女性が世間からどのように見られるかご存知ですか? 何か瑕疵があるのではないかと疑われ、今後の縁談にも差し障りが出てくるのですよ?」
「だから、婚約を解消され貰い手がいないおまえを、私が一生面倒みてやろうと言っているのだ。有り難く思え」
「私はそんなことを言っているのではなく、静子さまのことを申し上げているのです」
まったく噛み合わない二人の会話を隣から眺めている章吾は、心の中でため息を吐く。
千尋の意見を聞こうともしない実の姿には、怒りを通り越し哀れにさえ思う。
大吾と同じ三男で年齢は二十歳と聞いているが、彼はあまりにも子供すぎる。
「……千尋さん、そろそろ時間です」
二人の後ろに控えていた勇が、ついに声をかけた。
説得できなかったと嘆く千尋に、「君のせいではない」と章吾は慰める。
「それでは、私たちはこれで失礼させていただきます」
千尋を促し、章吾は席を立った。
「お待ちください。彼女を連れていかれては困る」
「そうそう言い忘れておりましたが、近々私たちは婚約を結びます。千尋さんは私が幸せにしますので、あなたも今の許嫁の方とどうぞお幸せに……」
呆然とした表情の実をおいて、三人は応接間を出て行く。
部屋の外には、静子が立っていた。
「……婚約を解消された身なのに、どうしてあなただけ幸せになれるの? わたくしは、今の立場を守ろうと必死なのに!」
静子は、一歳しか歳の違わない姉と常に張り合ってきた。
大店に嫁いだ姉に負けじと、三条薬房から千尋を追い出し実の許嫁に納まったが、店の経営が思わしくない。
しかし、婚約を解消するわけにはいかなかった。
千尋の言う通り、解消されれば周囲からは好奇の目で見られ、今後は大店との縁談など望むべくもないのだ。
本来であれば千尋も同じ立場であるはずなのに、彼女は見目の良い大店の次男と幸せになろうとしている。
静子には、どうにも納得できなかった。
「そうか、章吾さまは婚約解消された千尋さんにただ同情されていらっしゃるのよ。だったら、同じく婚約を解消されそうなわたくしを選んでください。あなたの身分に相応しいのは、彼女ではなく大店の娘であるわたくしです!」
「……本気でそう思っているのであれば、私はあなたの人間性を疑う」
章吾がいくら穏やかな性格とはいっても、聖人君子ではない。
余計なことを言われればイライラもするし、腹を立てることだってある。
しかも、静子は千尋を侮辱するような発言をした。
声を荒げないように、章吾は必死に我慢する。
「私は千尋さんを好ましいと思っていて、生涯の伴侶は彼女しかいないとも思っている。身分など最初から気にしていないし、千尋さん以外の女性を選ぶこともない」
「…………」
「どうしてこうなってしまったのか、それはあなた自身が一番よくわかっているのではないか? 『因果応報』ですよ」
章吾はさらりと事実を告げ、三人は三条薬房を後にした。
◇
帰りの車の中で、助手席に座っている勇が口を開いた。
「千尋さん、今日のことをありのまま菊乃さまへ報告いたします」
「……わかりました。よろしくお願いします」
菊乃が権力を行使するまえに、千尋は最後の機会を与えてほしいと懇願した。
もし、実が心を入れ替えたのであれば、しばらく様子を見る予定だったのだ。
しかし、実は変わらなかった。
最後まで千尋に対し横暴な態度を貫き、菊乃の代理人である勇から『失格』と判断されてしまった。
「君が、気に病む必要はない」
千尋は最後まで力を尽くし、手を差し伸べていた。
その手を振り払ったのは彼自身なのだから、自業自得だと章吾は思う。
「あの……申し訳ありませんでした。章吾さまに、あのような嘘まで吐かせてしまって……」
「えっ? ああ、あれは……その……」
章吾としてはあの発言は嘘偽りのない本心なのだが、それを(勇や運転手もいる)車内で公言することが憚られた。
「私もつい、年甲斐もなくムキになってしまったな……」
「でも、嬉しかったです。ありがとうございました」
肯定はしないが「嘘ではない!」と強く否定もできない章吾と、少々顔を赤らめて礼を述べる千尋。
後部座席の何とも言えぬ雰囲気を、勇はしっかりと感じ取っていた。
(菊乃さまへ、報告することが増えたな……)
与えられた任務はきっちりと果たす秘書、勇だった。
◇◇◇
三人が帰ったあと、実はすぐに家を発ち兄のところへ向かっていた。
静子がいつも以上に喚き騒いでいたが、実の耳にはまったく届いていない。
一刻も早く報告し対策を立てる必要があると、切羽詰まった状態だったのだ。
「絶対に、婚約などさせないからな……」
維持費のかかる自家用車は先日売却したため、実は人力車での移動を余儀なくされている。
大勢いた薬師も使用人も、半分ほどを解雇した。
それなのに、実はまだ現状を正しく理解できていない。
三条薬房に残された時間は、あとわずか……
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