189人が本棚に入れています
本棚に追加
終章~花咲く春にあう
三月に入り、暖かい日が増えてきた。
今年も薬草栽培の季節になったと、千尋は張り切っている。
土がむき出しだった『かなどめ薬草園』が緑の絨毯で埋め尽くされたころ、初めて章吾たちが京家へやって来た。
加代は年明けすぐにでも行きたいと言っていたのだが、この時期の薬草園には何も植えられていないこと、高鷲家と比べると寒いため、加代の体調を考慮し延期になっていたのだ。
「ここが、千ひろさんの実家なのね……」
叔父二人に連れられて来た加代は、物珍しそうに辺りをきょろきょろと見回している。
「以前は、父と二人で暮らしていました。今は一人なので、住むには広すぎるくらいですね」
「薬草園は、思ったより小さいな」
「私だけで管理していますから、これ以上広げると面倒が見きれなくなります」
「それでも、君一人だけで管理しているのだから、すごいな……」
高鷲家の面々は、それぞれの感想を口にしていく。
野良着姿で作業している千尋に、加代は懐かしそうに目を細めた。
「この薬草が、わたしの薬になっていくのね……」
「はい。今年から、藤島薬房へも卸すことになりましたから」
父の弟子だった藤島から連絡があったのは、先月のこと。
これまで、かなどめ薬草園の薬草はすべて三条薬房が独占していたが、その縛りが無くなったため他店へも卸すことが可能になった。
そんな千尋へ、客が急激に増えた藤島薬房から依頼があったのだ。
藤島には弟子も増えており、父の技術が若い世代へ確実に受け継がれていることを千尋は実感する。
「でも、またアイツの所へも卸すことになったんだろう?」
「秀雄さまとお二人で、診療所と薬房を併設した店を始められるそうです。先日、実さまにお会いしましたが、大分雰囲気も変わられていましたよ」
また薬草を卸してほしいと頭を下げに来た実は、顔は少々やつれていたが、瞳は以前よりも生気がみなぎっているように見えた。
心を入れ替え真面目に修業をしている実を、千尋は嬉しく思ったのだ。
「『修業をやり直すのであれば、薬草を卸す』と約束をしましたし、また元に戻るようであれば納品を止めると釘も刺しておきました」
実とはいろいろあったが、先代に助けてもらったことは紛れもない事実なので、千尋としては厳しい目を向けつつも彼の立ち直りを見守っていくつもりだ。
大吾は不満そうで、章吾も口にはしないが、元許嫁とこれからも関わりを持つことに胸中は複雑である。
しかし、千尋が納得しているのであれば、自分たちが余計な口を出すべきではない。
◇
お昼ごはんは、章吾たちが持参したお弁当を皆で食べた。
高鷲家の料理人が作った料理が重箱に綺麗に詰められており、見た目も味も良いお弁当に千尋の箸は止まらない。
心ゆくまで料理を堪能したのだった。
「皆さんをお連れしたい場所があるのです」
食後のお茶を飲んでいる三人へ、千尋は顔を向けた。
◇
四人は、長閑な田舎道を歩いていた。
やって来たのは、千尋にとって大切な場所……桜の木がある公園だった。
「ここは……」
章吾は瞬時に記憶を呼び起こす。
三年前、自身が治療した桜の木へ吸い寄せられるように駆け寄った。
「章吾先生は、覚えていらっしゃったのですね」
「私が治療した桜だが、君がなぜそれを知っている?」
「ふふふ、私はずっと見ていたのですよ」
この桜は亡き父との思い出の木で、自分の心の支えになっていたもの。
その木が弱り始めていたが、千尋ではどうすることもできなかった。
そんな時に、章吾が現れたのだ。
「先生は、私の心を救ってくれた恩人です。だから、どうしても恩返しがしたかった」
街で鉢植えを見ている章吾を見かけて、声をかけた。
一番良い鉢植えを薦めて加代に喜んでもらい、樹医の仕事の役にも立てて嬉しかった。
「……そして、助手としてこれからもお側にいられることが幸せです」
『あなたの側にいられることが幸せ』
まるで愛の告白のような千尋の言葉に、大吾はフフッと笑みを浮かべた。
「章吾兄、ここまで言われて行動を起こさなかったら、今度こそ俺が遠慮なく行くからな?」
「大吾、おまえ……」
「加代、俺たちは先に帰るぞ」
「……えっ、どうして?」
「どうしてもだ!」
大吾は問答無用とばかりに、加代を強引に抱き上げ足早に歩いていく。
公園から出て行った大吾たちを、千尋はぽかんとした様子で見送った。
◇
「ちょっと、大吾おじさま! わたしは、章吾おじさまが治した桜をもう少し見たかったのに……」
抱っこされている加代は、名残惜しそうに公園のほうを見つめている。
「二人の邪魔をしたら、悪いだろう?」
「もしかして……千ひろさんにフラれたの?」
「ち・が・う! 俺は、自分から身を引いたんだ!!」
高鷲家に戻ってきた千尋の瞳に映る人物が誰なのか、大吾は気付いていた。
彼自身もずっと、彼女を見ていたから。
「ふふふ……おじさまにも、次はきっとすてきな出会いがあるわ」
加代は大吾を慰めるように、頭をそっと撫でた。
まだまだ子供だった加代が、最近は少し大人びてきたように見える。
幼い姪に気を遣われ、叔父は苦笑いを浮かべた。
「加代はいいよな。もうすでに、素敵な相手がいるからさ」
「わ、わたしと進三さまは、お友だちです!」
「俺は別に、舟橋家の三男とは一言も言っていないぞ」
ニヤリと悪い顔で笑う大人げない大吾に加代は顔を真っ赤にしたあと、彼の耳元に口を寄せる。
内緒話でもあるのかと叔父が聞く姿勢を整えた次の瞬間、姪は大きく息を吸い込み……一気に吐き出した。
「おじさまの、いじわる!!」
辺り一帯に、加代の声が響き渡った。
◇
公園に置いていかれた千尋と章吾は、それぞれ別の理由で戸惑っていた。
「あの……大吾さまたちは、どうされたのでしょうか?」
「あ、ああ……二人は用事があるから、君は気にしなくていい。それより、仕事の話がある」
章吾は、さりげなく話題を変えた。
「新たな依頼を受けた。南方の島にある樹木を、治療してほしいそうだ」
「島にある木ですか……」
「杉の老木で、樹齢は二千年とも三千年とも言われている」
「す、すごいですね」
「今度は、これまで以上の長旅になるぞ。途中で、汽車と船に乗り換える必要があるからな」
「船! ぜひ、乗ってみたいです!!」
ぱあっと目を輝かせた千尋だったが、すぐにしょんぼりと項垂れた。
「私は薬草の世話がありますので、長旅は……」
「心配しなくても、出発は晩秋だから問題ないだろう? それに、もし必要があれば、兄がこちらに人員を派遣すると言っている」
「ありがとうございます! でも、これからは私も人を雇うことを考えたほうがいいですね……」
う~んと考え込む千尋へ、章吾は意を決し口を開く。
「今回は、君を助手ではなく……私の妻として連れていきたい」
「……えっ?」
「私と、一緒になってくれないか?」
「!?」
想像もしていなかった事態に、千尋はどうすればよいのかわからない。
鼓動は激しく、自分の顔が赤くなっているのがわかる。
尊敬し密かに思いを寄せていた章吾からの求婚は、涙が出るほど嬉しい。
しかし……
「で、でも、私は使用人ですし……」
身分が違いすぎると二の足を踏む千尋に、章吾は大きく首を横に振った。
「前に、三条薬房で話をしただろう? あれは、すべて私の本心だ。身分なんて最初から気にしたことはないし、私の伴侶は君しかいないと思っている」
「……先生のお相手が私でも、いいのでしょうか?」
「ハハハ……それを言うなら、心配なのは私のほうだ。後見人である菊乃さまから、君の相手として認めてもらえるかどうか」
苦笑いを浮かべた章吾へ、今度は千尋が大きく頭を振る。
「章吾先生のことは、菊乃さまも認めていらっしゃいます! だから、大丈夫です!!」
思わず拳を握りしめ力説する千尋。
自分との結婚は身分差を理由に躊躇しているくせに、キクの説得は問題ないと断言する矛盾した言動に章吾は可笑しさがこみあげる。
千尋もそのことに気付いたのか、さらに顔を赤くした。
「はっはっは!」
「ふふふ……」
顔を見合わせて笑う二人を応援するかのようにサワサワと枝を揺らした桜の木を、章吾は優しいまなざしで見上げる。
「……この木を治療していたとき、私はこの仕事を続けるかどうか悩んでいたんだ」
「なぜですか?」
「なかなか結果を出すことができなくて、落ち込んでいたのだ。だから、この桜が満開の花を咲かせた姿を見たときは、不覚にも涙がこぼれそうになった」
「…………」
そのときの章吾の姿を、千尋は今でもはっきりと覚えている。
自分以外にも、桜の再生を喜んでくれる人がいた……それが、ただただ嬉しかった。
「私は、ずっと───」
千尋も、一生添い遂げたいと思える人は章吾しかいない。
他の人ではなく、彼でなければ。
「───先生を尊敬しお慕いしておりました。このような不束者ではございますが、よろしくお願いします」
これからも、この人を支えていこう。
千尋は新たな決意を胸に、真っすぐ前を向いた。
◇◇◇
数日後、二人は結婚の承諾を得るためキクのもとを訪れる。
緊張を隠せない章吾を心配そうに見つめる千尋にクスッと笑ったキクは、結婚を許可する代わりに一つの条件を提示した。
「私が、京家へ婿入りですか……」
「そう。ククノチ様のご加護を受けている千尋ちゃんの実家を絶やしてしまうなんて、とんでもないことよ」
これからも加護を受け継いでいくためにも、実家は存続させていかなければならないとキクは主張する。
章吾は跡取り息子ではないとはいえ、大店の次男だ。
賢吾に結婚は認めてもらえたが、果たして婿入りなど許してもらえるのだろうか…二人は不安になったが、それは杞憂に終わる。
伯爵家の後見を持つ千尋との縁を賢吾が断ち切るわけはなく、大吾もいるから問題ないと二つ返事であっさりと許可が下りたのだった。
こうして、千尋と章吾は結婚し、のちに『夫婦樹医』としてその地位を確立していくことになる。
そして、それは彼らの子供へ引き継がれていくのだ。
◆◆◆
「……千尋、もうすぐ上方に着くぞ」
夫に揺り起こされ、妻は目を開けた。
途中まではしっかりと起きていて外の景色を眺めていたはずなのに、いつの間にか章吾にもたれて眠ってしまったようだ。
おまけに彼の上着までかけられており、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「気持ち良さそうに眠っていたから、起こさなかった」
「もたれかかった上に、あなたの上着まで奪ってしまって申し訳ありません」
「まったく問題ない。なんせ、寝ている子供は湯たんぽのように温かいからな……」
山高帽で顔を隠し楽しそうに笑っている章吾を軽く睨み、千尋は窓の外へ目を向ける。
すっかり日が落ち、夜になっていた。
「今夜はこのまま宿へ行き、明日、彼らを訪問する予定だったな?」
「はい。再会するのが楽しみです」
南方の島へ向かう途中、一度上方で汽車を乗り換えると聞いた千尋は、章吾にお願いをして元鉢植え売りの老夫婦に会いに行くことになった。
これまで何度か手紙のやり取りはしているが、直接会って近況の報告もしたい。
章吾も、千尋が世話になった二人へお礼と挨拶をするつもりだ。
「これから、また汽車に乗って…船に乗り換えてと忙しない日程だが、決して無理はしないように」
「わかっています……また寝ぼけながら歩き、足を挫いてあなたにおんぶされないよう気を付けます」
「あはは! そんなことも、あったな……」
神妙な顔で答える千尋に、章吾は堪えきれずに吹き出す。
丁度そのとき、汽車が駅に到着した。
乗客が、続々と降りていく。
「では、私たちも行こうか」
新妻の手を取り、夫はゆっくりと歩いていく。
二人の旅は、まだまだ始まったばかりだ。
最初のコメントを投稿しよう!