泣いた紫陽花

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泣いた紫陽花

「千尋、今までありがとうな」 「おかげさまで、予定より早く向こうへ行けるよ」 「こちらこそ、短い間でしたがお世話になりました」  引っ越しの準備が進む家の中は荷物が半分以上きれいに片付けられていて、裏庭に数多くあった鉢植えも今は一つしか残っていない。  千尋の大事な相棒だった代八車も、つい先ほど新たな使用者のもとへ旅立っていった。 「やっぱり、千尋ちゃんも私たちと一緒に上方(かみがた)へ行かないかい?」 「ううん。私はやりたいことが見つかったから、もうしばらくこの町にいることに決めたの」 「そうかい。残念だけど、無理強いはできないもんね……」  千尋が老夫婦と知り合ったのは四月の初旬。  以来、ここで二か月ほど住み込みで働いていた。  上方にいる息子夫婦の元へ身を寄せる前に、少しでも金銭を稼ごうと日々奮闘していた老夫婦の手助けになればとの思いからだったが、思わぬ上客に恵まれた千尋のおかげで予定よりも早く彼らは旅立つことになったのだった。 「私たちが引っ越す前に、新しい仕事は見つかりそうかい?」 「職業周旋(しゅうせん)屋で探しているよ。茶房の女給さんとかで、住み込みのところがあればいいんだけどね……」 「以前の店に戻る気は、ないのかい?」 「あそこに、私の居場所はもうないのよ」  寂しげに微笑んだ千尋は、聞こえてきた雨音に引き寄せられるように庭へ目を向ける。  裏庭にぽつんと置かれた紫陽花の鉢植えが、降り出したばかりの雨に打たれていた。  ◇◇◇  梅雨の時期に入り、毎日雨がシトシトと降り続いている。  締め切られた窓から庭を眺めていた加代は、つい先日、梅雨の晴れ間に千尋が持ってきた鉢植えに目を留める。  青紫色の小さな花が半分ほど咲き始めた紫陽花で、「これは、とっておきの一品なんですよ!」と千尋が自信を持って言っていたこともあり、花がすべて咲き誇ればさぞかし綺麗な姿を長く楽しませてくれることだろう。  大吾へ「千ひろさんが、きれいな花が咲くって言っていたのよ」と教えると、「紫陽花の花に見えるアレは、本当は花じゃないんだぞ。アイツは鉢植え売りのくせに、そんなことも知らないのか」と勝ち誇ったように語っていたので、今度千尋へこっそり教えてあげようと加代は思った。    結局、ビワの一件では一度も勝てなかった大吾は、それから何かと理由をつけては勝負を挑み、返り討ちに遭っている。  以前、自分も千尋へ賭けを持ちかけ完敗した章吾は、大吾へ「近所迷惑だから、朝、家の前での待ち伏せは止めろ」と注意はしたが、屋敷内でのことに関してはただ生温かい目で見守っているだけで、行動を止める様子はない。  それもあって、大吾が屋敷にいない時間帯を見計らって高鷲家を訪れる千尋が、加代には可笑しくてたまらなかった。 「今度のお出かけが、たのしみだわ……」  半月ほど前から加代は小学校への通学を再開し、様子を見ながら徐々に行く回数を増やしていた。  そして、毎日通学できるようになったころ主治医の許可が下り、久しぶりに遠出をすることになったのだ。  この時期に訪れたい場所といえば、あそこしかない。  出かけたいと言った加代に父はかなり難色を示したが、ひ孫には殊更(ことさら)甘い曾祖父の口添えと、章吾の「自分も同行する」との言葉に渋々折れる。  外出予定日に仕事の大吾が「俺も行きたいから、日にちを変えろ」と加代へ要求し、ひと悶着あったのはおまけの話。    千尋へも半ば強引に約束を取り付けた加代は、指折り数えその日を待つ。  どうか、晴れますように……との願いをこめて。  ◇  加代の願いが通じたのか、その日は朝から梅雨晴れとなった。  章吾と共に自家用車へ乗り込んだ加代は、都の景色に目を輝かせている。  自動車の定員は運転手を含め四名なので、もし大吾も居れば章吾は辻待ち自動車を二台手配するつもりでいた。    二人の乗った車は五分ほど走ったところで、大通りの端に一度停車する。  ここで、千尋と待ち合わせをしていた。  今日の目的地が千尋の家を通り越した先にあり、加代は「ついでだから、家まで迎えに行く」と言ったのだが、章吾の「家の前の道は狭くて、車の乗り入れはできない」との言葉に断念。  千尋に、近くの大通りまで出てきてもらうことになっていた。 「千ひろさんは、どこかしら?」 「人通りが多いから、私が見てくる。加代は、車で待っていなさい」  運転手がドアを開け、車を降りた章吾がぐるりと周囲を見回していると、近づいてくる人影があった。  視線を送ると、着物姿の小柄な女性だ。 「おはようございます。本日は、よろしくお願いします」  ペコリと頭を下げる女性の顔をよくよく見ると、千尋だった。  麦わら帽子に野良着姿の彼女を見慣れていた章吾は、しばし凝視してしまう。  千尋はもともと目鼻立ちは整っているので、きちんとした恰好さえすれば美しい女性なのだ。 「あの……」 「ああ、すまない。普段と服装が違ったから、すぐに君とわからなかった」 「フフッ…さすがに、仕事の時しかあの恰好はしませんので」  苦笑いを浮かべながら、千尋は運転手の案内で助手席に腰を下ろす。 「千ひろさん、着物がよく似合っているわ!」 「ありがとうございます。お出かけ用のきちんとしたのが、これくらいしかないのです」 「こうし(格子)柄の、すてきな着物ね」 「これは、母の形見なんです」  初めて乗った車に最初は恐々(こわごわ)した様子の千尋だったが、次第に慣れ、街の景色を楽しむ余裕が出てきた。 「今日は、アジサイ寺へ行くのよ」 「紫陽花?」 「アジサイがたくさん咲いていて、とてもきれいなの!」  紫陽花の名所として知られるその寺は、都の郊外にある。  寺の近くまで路面電車が通っているため、この時期は多くの参拝者で賑わっており、周辺の土産物店や飲食店も盛況だ。    秋には紅葉も綺麗だとか、小学校での出来事など、加代の尽きることのない話に千尋は笑顔で耳を傾けていた。  
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