序章~花冷えの日に……

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序章~花冷えの日に……

 ここは、東方にある島国の都。  争乱の時代は終わり、人々が平和に暮らしている。  異国との交易で文明が発展していくなか、類いまれなる能力を隠し持った娘がいた。    ◇  都の中心地からは外れた長閑な田園地帯に、こぢんまりとした薬草園がある。  園の名は『かなどめ薬草園』。  主は、十八歳になったばかりの(かなどめ)千尋(ちひろ)だ。  千尋は今日も手拭いを頭に載せその上から麦わら帽子を被った、いつもの野良着姿で作業をしていた。 「うん、だいぶ大きくなったね。これなら、そろそろ出荷できるかも……」  三月も末頃となると暖かい日が続き、薬草の育ちも良くなる。  日に日に大きくなる植物たちを眺めているだけで、自然と頬が緩む。 「みんな、良く効く薬になるんだよ」  千尋が丹精込めて育てている薬草は、すべて『三条(さんじょう)薬房』に納められ薬となる。  三条薬房は都の目抜き通りに店を構える大店(おおだな)で、現在の店主の長兄は典医を務めるなど権力者との繋がりも深い。  他の薬房より少々薬代が高額なこともあり、顧客は華族や士族、大店の商家など金持ちが多いのだ。  三条薬房とは、先代からの付き合いである。  千尋の亡き父も薬師で、もともと実家は薬房を営んでおり、千尋が育てた薬草はそこで使用されていた。  父の作る薬は良く効くと評判だったが、一人で生産できる量には限界があり、消費しきれない薬草を親交のあった三条薬房へも卸していた。  しかし、二年前に父が他界し、母も幼いころに亡くしていた千尋はひとりぼっちになってしまう。  そんな彼女に救いの手を差し伸べてくれたのが、三条薬房の先代だった。  薬草はすべてうちが引き取るから、このまま栽培を続けるよう申し出てくれたのだ。  こうして、以前と変わらない生活を送っていた一年前のある日、千尋は先代からの強い要望で、薬房の跡取りである三男の(みのる)の許嫁となる。  実は千尋より二歳年上の二十歳で、腕の良い薬師として名を馳せていたが、師である父親には頭が上がらないようだった。  薬草を三条薬房へ卸してはいたが二人の間にこれまでほとんど面識はなく、顔合わせのときに千尋は『気難しそうな、口数の少ない人』との印象を持った。    ひと月前、先代が急逝し、若くして実が三条薬房の店主となる。  葬儀は千尋も許嫁として手伝い、喪が明けたら、いよいよ結婚の準備が始まるのだと思っていたのだが……      ◇  いつものように薬草を納め、帰りの途につこうとしていた千尋は、大事な話があると実から呼び止められる。   「私との婚約を、解消してくれ」  応接間で向かい合った実の口から飛び出したのは、一方的な言葉だった。  しかし、千尋に動揺はない。 「わかりました」 「なんだ。もっとごねられるかと思ったが、意外にあっさりしたものだな」 「自分でも、許嫁という立場が分不相応だとは思っておりましたので……」  なぜ先代が自分を息子の許嫁にしたのか、千尋はずっと疑問に思っていた。  名家出身でもなく、このような大店を取り仕切る技量もない自分に務まるはずがない……そう言った千尋へ、先代は「千尋さんは、我が家には必要な人だよ」と笑っていた。 「話がそれだけでしたら、私はこれで失礼させていただきます」 「待て、大事な話はもう一つある。かなどめ薬草園を家ごとうちで買い取るから、近日中に退去してくれ」 「……どういうことですか?」 「実は……新しい許嫁から、完全に関係を断ってほしいと言われている」  新しい許嫁と聞いて、千尋には思い当たる人物が一人いた。  葬儀のときに許嫁である千尋を差し置いて、使用人へあれこれと指示を出していた女性。  海産物を取り扱う大店の(いつき)商店の次女、(いつき)静子(しずこ)だ。  たしかに彼女なら、三条薬房の奥様も務まるだろうなと千尋は思った。  しかし、婚約解消は受け入れても、大事に育ててきた薬草園を売る気はない。  併設されている家も、千尋にとっては家族の思い出が残る大切な場所なのだから。 「私は、家も薬草園も手放すつもりはありません。関係を断ちたいのであれば、私との取引をお止めになればいいのでは?」 「薬草はこれからも必要だ。父も言っていたが、かなどめ薬草園のものは特に品質が良い。だから、私は命じられた婚約話を承諾したのだ」  薬草を得るために婚約したと聞かされ、その理由にすんなりと納得してしまった自分に苦笑する。 「……でも、彼女が言った。『薬草園を買い取ってしまえば、いいのでは?』とな」 「薬草の品質に頼らずとも、組み合わせ次第で効能の良くなる薬は幾らでも作れます。現に、父のお弟子さんは───」 「偉そうに、私に説教をするのか。薬師の知識はなく、ただ薬草の栽培しかできないくせに」 「…………」  実の辛辣な言葉に、思わず千尋は黙り込む。  本当は千尋も、父のような薬師になりたいと思っていた。  しかし、父は娘に薬師としての勉強は受けさせず、読み書きと算術だけを習わせたのだ。  納得できず理由を尋ねた千尋へ、父はこう言った。 「『(がく)』や『能力』があると、妬まれたり足を引っ張られることもあるからな。だから、おまえのあの能力だけは絶対に他人に知られてはいけないよ。その相手が、たとえ生涯を共にする許婚であっても……」 「どうして?」 「おまえが……女だからだよ。昔に比べれば女性も自由に生きられる時代になったとはいえ、男より秀でた力は時に疎まれ、時に利用されるものなのだ」  学がないことで実から蔑まれてしまったが、あったらあったで、逆にいいように利用されていたのだろう。  婚約した理由と今の実の発言で、千尋は確信を持つ。  残念ながら、父の言うことは正しかった。 「……あの薬草は、私が栽培しなければ意味がありません。だから、どうか考えを改めてください、実さま!」 「ハハハ! そんな理由でどうしても売らないと言うのであれば、こちらとしても考えがあるぞ」 「何をするつもりですか?」 「周囲へ圧力をかけて、かなどめ薬草園の薬草を売れなくしてやろう。他店の薬の品質が上がってしまうと、うちの店の売り上げにも関係してくるからな」 「あなたという方は……」  これが、実の本性なのだろう。  先代の父親は店の薬を良くするための努力は怠らない人だったが、そのために他人を貶めるような人物ではなかった。 「別にあの土地さえあれば、おまえは必要ない。薬草を栽培することくらい、誰にでもできる」 「私は……必要ないですか」  実とは一年ほど許嫁の関係ではあったが、相変わらず交流はなく彼に対し愛情が芽生えることは一度もなかった。  愛情はなかったが先代から受けた恩があり、それを返すべく千尋は心を込めて薬草を育ててきた。  たとえ先代も薬草が目当てだったとしても、自分を必要だと言ってくれ、存在を認めてもらえた。  それで満足だったのに、実ははっきりと否定したのだ。  千尋は、心が冷えていくのを感じた。 「……わかりました。荷物を纏めて、数日中には出ていきます」 「後から文句を言われないように、金には色を付けてやる」 「ありがとうございます。これまで、お世話になりました」  千尋が生まれ育った家と薬草園を後にしたのは、花冷えの日だった。  その足で、近所にある公園の桜の木へ会いに行く。  毎年、父とお花見をした想い出の場所。  そして、千尋の心を救ってくれた恩人の『彼』を見かけたのも、ここだった。
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