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まだ明けきらない冬の朝。
目覚ましの音もなしに目を覚ました村野は、布団から出る前に隣で眠る剛毅の唇にそっとキスを落とす。
ただ軽く触れるだけの、小さな挨拶。寝起きのキスは嫌がるから、こっそり眠っている隙に。
村野はそのまま、剛毅を起こさないようにそっとベッドを抜け出した。 開け放したままのリビング代わりの剛毅の部屋から、目を覚ましたマロンがトトトと軽い足音を立てやってくる。マロンのベッドは剛毅の部屋にあるけれど、剛毅は毎晩、村野と一緒に眠る。
寂しがって二人のベッドに潜り込んでくるか思いきや、空気を読めるマロンは夜は大人しく自分の寝床で眠るようになった。
米を洗って炊飯器にセットしてから簡単に身支度をして、村野は足に纏わりついていたマロンを抱き上げ玄関先に向かう。
村野は下駄箱の上に掛けてあるリードをマロンの首輪に付けてから、スマホ画面を確認する。
今日は、2月14日。天気予報は晴れのち曇り。気温は3℃。時刻は6時3分。
そのままスマホをポケットに戻し、村野はマンションのドアを開けた。
どんなに寒くても、お散歩好きのマロンは嬉しそうに外に出る。人間で言えばもう結構なおばあちゃんな年だけれど、元気だ。
昔に比べればだいぶ大人しくなったよ。と少しだけ寂しそうに剛毅は言うが、出会ってから4年。一緒に暮らし始めてもうすぐ1年の村野から見れば、変わらず元気で賢いマロンだった。
最初は、ご飯以外の家事とマロンの世話は全部俺がやる!と、意気込んでいた剛毅だが、意外と大学生は暇じゃない。真面目な剛毅は授業も休まず、レポートも試験勉強もきっちりやるし、カフェレストラン『エクリュ』のバイトも続けている。
一方、村野は去年調理師専門学校を卒業後、老舗料亭の板前見習いとなり一足早く社会人になった。
板前というレトロな響きは『修行』という名のブラックな勤務形態を想像しがちだが、村野が働く料亭は週休二日の8時間勤務。ちゃんと有給休暇もある。
夜がメインの飲食業だからどうしても帰りは遅くなってしまうが、早起きで比較的午前中に余裕のある村野は、朝が弱い剛毅を早起きさせるのも忍びなくて、つい洗濯や掃除、他の細々としか家事もついやってしまう。
剛毅は、もう! 俺がやるって言ってるのに! と口を尖らせて、その形の良い眉を寄せるのだけれど、そのあとは決まって、……ありがとう。って少し困ったように微笑むから、村野はそれが可愛くて、つい。。。 という悪循環に陥っているのを、剛毅は知らない。
まだ夜明け前の蒼い空。
川沿いの遊歩道のいつものところで、用を足したマロンは、村野が落とし物を拾って処理するのを大人しく待っている。
室内飼いの小型犬であるトイプードルのマロンは、特に外で用を足すように躾けられた訳ではないけれど。
よほどの悪天候以外、朝は村野が、夕方か夜には剛毅が散歩に連れてゆく。夜の散歩も村野が家にいる時は一緒に行く。
遅い時間に一人(と一匹)であまり外に出したくないので。
この辺りは治安も悪くないし、駅から少し離れてはいるが住宅街で人目もある。大通りを選んで歩いていれば滅多なことはない。
過保護だという自覚はあるけれど。
ふりふりと尻尾を振りながら屈んだ村野の膝に前足を掛けて、見上げてくる丸く濡れた真っ黒な瞳。真っ直ぐに向けられたその瞳が、昨夜の、熱に浮かされたように甘く自分を見上げる剛毅の瞳と重なって。
ふ、と三白眼の強面の頬が緩んだ。
「長生きしろよ」
片付けて立ち上がる前に、村野がそう頭を撫でると。
マロンは、わかってるよ。とでも言うふうに、ぅわン! と小さく返事をした。
散歩から戻った村野は、足拭きと後片付け、手洗いを終え、エプロンをつけて台所に立つ。
出る前に洗ったお米は、ちょうど程よく吸水されている頃合いだ。炊飯器のスイッチを入れてご飯が炊き上がるまでの約30分間で、朝食と剛毅の弁当を作る。
ここまでが村野の、いつもの朝のルーティン。
昼と夜は毎回一緒には食べられないから、朝食だけは毎日二人で一緒に食べる。
就職した村野を気遣って、学食もあるし弁当はいらないと言われたけれど、なるべく剛毅を自分(の作ったもの)で満たしたい村野は、弁当作りも止めるつもりはなかった。
村野が替えてやった水を飲んでから戻ってきたマロンが、いつものように村野の足元にやってくる。軽く頭を撫でてやると、トコトコと少し離れた位置まで下がって、ぺたりと寝そべった。
剛毅の実家と違ってこのマンションに床暖房はついておらず、フローリングのダイニングスペースは冷えるから、冬の間はダイニングテーブルの下にホットカーペットを敷いている。
台所に立つ村野が見えるそのカーペットの端っこが、マロンの朝の定位置だった。
そうして剛毅が起きてくるまで、水音や包丁とまな板の立てる音、チチチチチというガスコンロの操作音、換気扇の音。村野の立てる様々な調理の音と漂う香りに、ときおり耳をピクピク、鼻をひくひくさせながら、そこでうとうと微睡む。のが、マロンの朝のルーティン。
そうして。
使った調理道具を洗ってカゴに上げて、実乃里から貰った引越し祝いの壁掛け時計の針に目をやれば、7時15分。
弁当も水筒も準備万端。朝食の用意も出来て、あとは食卓に並べるだけ。寝室の襖は閉められたまま、まだ剛毅が起きてくる気配はない。
エプロンを外しかけた村野は、ふと動きを止めた。
(……今から作れば、間に合うか)
本当は昨日の夜作るつもりだったのだが。
お風呂上がりのほこほこのまま、余ったヨーグルトで作ったソルベを嬉しそうに食べる剛毅の姿についタガが外れてしまって……。
毎度反省はするけれど、学習はしない村野だった。
かなり遅い時間まで付き合わされ、そのまま眠りに落ちてしまった剛毅。 今日の授業は2講目からだと言っていたからまだ起こす必要はない。
板場の勤務は二交代制のシフト勤務で、今日村野は遅出だから午後からの出勤で良い。だから、朝食後に作り始めればいいか。と思っていたのだけれど。
出来上がりを逆算してみたら、剛毅が出かけるまでに間に合いそうだった。
「よし」
そう小さくて呟いてエプロンを付け直した村野に、マロンはむくりを起き上がり、なに何? と言うふうに首を傾けた。
* * *
「剛毅、起きれるか?」
抑揚のないバリトンボイスが、耳を擽る。
「ん……」
返事とも、吐息とも取れる声を漏らして身じろぎをした剛毅の顔を、マロンの小さな舌がぺろぺろと舐める。
二人?がかりで起こされて、ああ、またやってしまった。と、ため息を吐きながらむくりと起きた剛毅を、村野はぎゅっと抱きしめて、頭にちゅっとしてから立ち上がり寝室の遮光カーテンを開ける。
毎朝、毎朝、こんな感じ。
嬉しいやら、恥ずかしいやらで、同棲を始めて一年近く経っても剛毅は未だにドキドキする。寝起きが心臓に悪い。
「おはよ。マロン」
膝の上に乗ったマロンを撫でながら、レースのカーテン越しに眺めるベランダには、もう洗濯物が干されていた。
今日は2講目からだから、洗濯くらいはしようと思っていたのに。と少し恨めしい気持ちでその洗濯物を眺める。
村野と致すのは、全然まったく嫌ではない。というか寧ろ好きだし幸せなのだけれど、頻度と濃さと時間が……。と思う。
あんな無表情な鉄仮面が、実はあんなにむっつりスケ◯だなんて、誰も思わないよな。とため息を吐く。
それとも、若い健康な男子ならそれで当たり前なのかな? と、そうした欲望が薄いタイプの剛毅は人ごとのようにそう思う。
昔からそうした欲望に塗れた眼差しに晒され続け、そうしたことに嫌悪感しかなかった自分が、今はこうして村野とちゃんと愛し合えていることを、剛毅はなんだか不思議に思うと同時にほっとしていた。
体力的にはちょっとキツいけれど。
のそのそと布団を出て、顔を洗ってから食卓に向かうと、もうテーブルには朝食が並んでいる。
お味噌汁のいい匂い――。
「おはよう、剛毅」
「おはよ」
自分の分の味噌汁とご飯を置いて、村野が向い側に座る。
白いご飯と白菜の糠漬け。と、ホカホカのだし巻き卵、大根おろし添え。
味噌汁は具沢山で、野菜やきのこや豆腐や豚肉?等々、いろいろ入ってる。
シンプルなメニューだけど、これだけで栄養のバランスはしっかり取れていそうだ。
しっかりした体格に見合う量をしっかり食べる村野は、パンはおやつ。飯食わないと力が出ない。と、朝は毎日こんな感じ。
食べる量は違うけど、剛毅もこうして毎朝しっかり朝食を摂るようになったから、なんとなく身体の調子が良いというか健康になった気がする。
剛毅は大きなだし巻き卵に箸を入れ、取り皿にとって大根おろしを乗せ、少しだけ醤油を垂らして頬張った。
ふかふかのやわやわで、ぷるぷる。薄味だけど出汁の風味としっかりとした卵の旨みが口いっぱいに広がる。
「はー……。美味しい」
しみじみと呟いた剛毅に、
「弁当にも入ってるぞ」
丼並みの大きさの汁椀を抱えた村野が答える。
「ほんと? やった!」
村野の勤め先は、京風の懐石料理なども出す高級料亭だ。最近は家での和食のグレードも確実に上がっている。
もともと料理上手だった村野が、専門学校に行ってプロになったのだ。お弁当だって、仕出し屋さん?っていうくらいの出来栄えで、ゼミの友人たちと一緒に学食に行っても、熊崎の食べている弁当が一番うまそうだよな……。と羨ましがられる毎日。
家では村野の手料理、バイトのある日は『エクリュ』の賄い。お昼は村野のお弁当。という生活をしている剛毅の舌も確実に肥えている。
――これはこれで、この先困るんじゃないかな。と、幸せな悩みを抱えている剛毅だった。
「なんか、……甘い匂いがする。チョコレート?」
剛毅はオーブンの方を見ながら顔を傾けた。
「ブラウニーだ。もうすぐ焼き上がる」
「職場に持ってくの?」
今日はバレンタインデーだから、差し入れかな?と思う。
「余った分は、な。おまえが出掛けるまでには冷めるだろうから、学校とバイト先に持って行け」
村野はお菓子もときどき作るけど、焼き菓子系はたいてい二人では食べきれない量になる。その時は大学やバイト先に持たせてくれたり、職場でお裾分けしたりしているみたいだった。
「ありがと。鷺沼さん、村野のお菓子のファンだから喜ぶよ」
「バイト先はいいけど、学校では個人的に渡すなよ?……特に男には」
村野瞳、という可愛らしい名前のせいで、最初は「彼女」だと勘違いされていた。
去年ちょっといろいろあったお陰で、村野は彼女じゃなくて彼氏で、同居ではなくて同棲している。と、今はもうバイト先ではそう認識されているけど。
大学では、熊崎には絶品弁当を作ってくれる瞳ちゃんという可愛い彼女がいる。と思われている。
学校ではそう思わせておけ。と村野が言うから、剛毅もあえてそれを訂正していない。
男もイケると思われたら、勘違いする輩が湧いてきそうだからなー。それは村野が正解だな。と、迫田も笑ってそう言っていたし。
「渡さないよ。持っていったら、いいなぁ、瞳ちゃんに貰ったのかよ! お裾分けありがとな!っていう反応だと思うよ?」
「……瞳ちゃんの愛情たっぷりチョコだって、しっかり言っとけ」
こう見えて、案外村野はやきもち焼きだと言うことも、剛毅は最近知った。
「わかった」
くすくす笑いながら剛毅がそう答えると、オーブンから、チン!と、焼き上がりをお知らせする音が響いた。
食べ終わった食器を剛毅が洗って片付けて、剛毅が学校へ行く用意をしている間に、村野は焼き上がったブラウニーを取り出して天板から外し冷ます。
部屋中に香ばしく甘い匂いが漂っていて、剛毅はマロンと一緒にスンスンと鼻を鳴らしてしまっていた。
どちらかというと固形のチョコレートより、チョコムースとかチョコケーキとかそっちの方が好きな剛毅は、村野のブラウニーが気になって仕方がない。
「剛毅」
着替えてダイニングに戻ってきた剛毅を、村野が呼ぶ。なに?と近づいてきた剛毅の口に、切り取ったブラウニーの端っこ放り込んだ。
「ん!……っん〜、何これ。おいしー! ふわふわ! ナッツも入ってる」
まだ温かいブラウニーを頬張ってもぐもぐしながら、剛毅は嬉しそうに声を上げる。
冷めるとしっとり固まるブラウニーだが、まだ柔らかくて、フワトロな何かが入ってる。ナッツもゴロゴロ。
端っこが切り取られた黒いブラウニーの断面を覗き込むと、白く丸いものが見えた。
「マシュマロ?」
「そう。マシュマロと、胡桃とマカデミアナッツと、アーモンド」
マシュマロもナッツ類もそれぞれが別々の食感で、歯応えも楽しい。マシュマロは甘いけど、ナッツもたっぷりだから甘くなり過ぎない。初めて食べるブラウニーだった。
「ロッキーロードブラウニー。っていうらしい」
言いながら村野がサラサラと粉糖を振るうと、ゴツゴツした凸凹道みたいな表面に粉雪が降り積もる。
「冷ましてから食べるお菓子だけど、あったかいうちに食べてもまた食感が違って旨いだろ?」
「うん!」
長いパン切り包丁で、村野はその大きな塊をつまみやすい大きさにザクザク切り分けてゆく。
「まだ時間あるなら、何か飲むか?」
「俺が淹れるよ。何がいい?」
いつも美味しい料理を作ってくれる村野に、飲み物ぐらいは自分が。と、最近の剛毅は飲み物のレパートリーを増やそうと頑張っている。
「じゃあ……ココア」
「了解」
キッチンカウンターでブラウニーを小分けしてラッピングを始めた村野と背中合わせに立ち、剛毅は覚えたてのココアの入れ方を忠実になぞる。
まずはカップ二杯分の牛乳を用意して、ホットココア二杯分の分量の純ココアをホーローの小さな片手鍋に入れる。
そこに牛乳を少しだけ入れて、しっかりとペースト状になるまで木のスプーンで溶かす。
お砂糖はそれぞれ好みがあるから、後で。
ダマが消えて滑らかになったら、残りの牛乳を半分加えて鍋を火にかけて。
弱火でゆっくりくるくる混ぜながら温め、縁がふつふつしてきたら残りの牛乳を全部入れる。また縁がふつふつしてきたら火を止めて、お湯を入れて温めておいたカップに注ぎ入れる。
「出来たよ。お砂糖は?」
「剛毅の半分」
「はーい」
台所には三温糖とかキビ糖?なんかの茶色いお砂糖もあるけれど、剛毅はココアには普通の白いお砂糖を入れることにしている。
自分の分には少し多めのスプーン一杯。村野の方には、その半分……て、このくらい?と、首を傾げながら入れて、かき混ぜてからスプーンごと渡した。
「ありがとう」
「どういたしまして。……甘みは?」
村野がひと口飲むのを待って、そう聞く。
「ちょうどいい」
そのままカップを持って、二人でソファに移動する。
出かける時間まで、ーーあと15分。
ホットカーペットの上で伸びていたマロンが、ててて、とついてくる。
マロンは二人の間にちょこんと割り込んで、尻尾は剛毅、顎は村野の脚の上に載せた。
ふうふうと息を吹きかけながら、並んでココアを飲んでいると。
「9時には上がらせてもらえよ」
「うん」
「帰り、近道しようとして大通りから外れるなよ」
「うん」
普段は口数が少ないのに、出かける前は毎回心配性の母親みたいになる村野に笑いを堪えながら、剛毅は素直に頷く。
それを杞憂だと笑い飛ばせない前科もあるので、俺男だよ?という返しもできないし。
「テーブルにおまえの分のブラウニー、ちゃんと置いておくから夜にな。カウンターの上のラッピングしたヤツは、いるだけ持っていいぞ」
「帰ったら一緒に食べる?」
「いや、遅くなるから先に寝てろ」
もう後期試験も終わったし、明日から大学は春休みに入る。
水曜日は村野の勤めるお店の定休日だから、明日は村野もお休みだ。
一応頷いてはみせたけれど……。
今日はバレンタインデーだ。遅くなってもいいから、村野が作ってくれたブラウニーを一緒に食べたいな。と思う。
(そういえばココアって……、チョコレートの仲間だっけ?)
ゆらゆらと湯気の立つココアのチョコレート色の表面を見ながら、ふと気付く。
何飲む?って聞けば、八割がたコーヒーって返ってくるのに。ーー今日はココアなんだ。
思わず、ふふと笑みが溢れた剛毅の唇に、村野の唇が重なった。離れる時にその唇をぺろりと舐めて、
「やっぱり、おまえのは甘い」
びっくりして固まった剛毅に、村野は淡々とそう言った。
家を出るまで、あと5分。
やっぱり今夜は、起きて待っていよう。
そう決めた剛毅は、お返しに村野の唇をぺろりと舐めた。
* fin.
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