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私とばあちゃんと、彼
「ばあちゃん!ご飯食べた!?」
「まだ」
「今日はヘルパーさん来んの!?」
「休みじゃ」
「そうかあ、分かった!今から夕飯作るな」
私の両親は幼い頃に他界したそうだ。不慮の事故というやつで、私一人が残された。
母方の祖母が私を引き取り育ててくれて、こうして元気にしている。耳が遠くて、私を忘れるほどじゃないけど、最近ちょっとボケてきた。薬を飲み忘れたり、ご飯を食べ忘れたり、2回食べたり、ちょっとだけ記憶が抜けるようになった。
私も毎日は顔を出せないから、いつもはヘルパーさんにお願いしている。
最初は罪悪感があった。なんだか親を見捨てたようで、私が冷徹で残酷な人間に思えて。それでも働かないといけない。そうなると付きっきりで世話なんてできない。
色々葛藤しながら頼んでみたら、生活がかなり楽になった。
毎日毎日顔を合わせるよりも、時々実家に出向いて過ごすほうがお互いに楽だった。
ばあちゃんは小さくなっていた。
小さい時はパワフルでガサツなばあちゃんだった。大雑把な切り方の野菜炒めと白米をドンッと出して、食えっ!というようなばあちゃんだった。友達を家に連れて行った時は、ずけずけと物を言って、皆を困らせた。
盗みはいかんぞとか、鳥の脚みたいに細いけど飯食っているかとか、暗いところで本を読むから目が悪くなるんだとか。
とにかく恥ずかしかったのを覚えている。
それが今では、ちんまりと安楽椅子に腰掛けて、日がなテレビを眺めている。笑うでもツッコミを入れるでもなく、ぽけーッと。
それでも一緒に過ごせる一日は気持ちが安らぐ。結局実家が一番なのだと本心から思う。
実家に近いマンションに引っ越して、仕事も変えた。
ばあちゃんの持病が悪化したから、いつでも飛んでいけるように。
心機一転、春風が心地いいなんて新たな気持ちは微塵もない。でも悪い事ばかりではなかった。
新しい職場と新しい部屋、慣れない中で新たな出会いがあった。
私より少し年上の彼は、あまり話さない人だけど、気配りの出来る優しい人。書類の整理に手間取っていると、パパッと片してアドバイスをくれたのがきっかけだった。事あるごとに目を掛けてくれて、私が慣れてきた頃にご飯に連れて行ってくれた。私がこの辺りのおいしい店を訪ねたからだと思う。我ながらあの時は上手い誘導が出来たと思っている。
ばあちゃんに紹介したいと彼に告げると、少し驚いた顔をしていたけど穏やかに頷いてくれた。周りの女性が結婚していく中ちょっとだけ焦っていたのかもしれない。引かれてしまうかと思ったけれど杞憂だった。
それから私の家族の事を聞いてくるようになったり、ばあちゃんの人柄を聞いてくるようになったり、何だか試験対策でもしているような必死さに思わず笑ってしまった。
そんなに気負わなくてもいいのになあと。
実家には駐車スペースが一台分しかない。あまり車の通らない住宅街だから、家の前に寄せて駐車した。ハンドルを握ってやたら深呼吸するなと思ったら、やっぱり帰りたいと言い出した。いいから行くよと手を握って引きずり出したけど、相当緊張していたみたいで、手がとても冷たかった。
離すのも違うかなと思って、そのまま実家の鍵を開けたんだけど、今考えるととても恥ずかしい。
バラエティー番組の笑い声が聞こえる居間に向かうと、ばあちゃんはチラリとこちらを見て笑った。どうやら上機嫌らしい。
「ばあちゃん、前に話したでしょ?彼氏!連れてきたよ!」
「うんうん」
彼は丁寧な自己紹介をすると、修行僧の様に正座していた。
「足崩せば?」
「えっ?ああ、うん」
こんな彼、初めて見るな。
私は夕飯を作る為に台所に行くと、何やらクラクションの音がうるさい。何度も鳴らすから何事かと思っていると、ある事に気が付いた。
「車……」
彼も気が付いたみたいで、私が言う前に外に向かっていたらしい。台所から居間に向かうと、ぽつりとしていたばあちゃんと目が合った。
「車が邪魔だったのかも。大丈夫かな」
「あいつはやめとけ」
「えっ?」
とんちんかんな返答に困惑した。あいつはやめとけ?もしかしたらボケが進んでいるのかもしれないと、急に不安になった。
「ばあちゃん?どういう意味ね?」
「あん男はやめろ、ろくなもんじゃねえ」
「――なんか言われたん?」
「いいや。でも分かる」
ガラガラと引き戸の音が聞こえた。
何でそんな事言うん?ばあちゃんに紹介した彼氏なんてこれまでいなかったのに。それだけ真剣て分ってるはずなのに。
「やっぱり車でした、ああ、車が邪魔だったみたい。優しい人だったから良かったよ」
「あっ、うん、ありがとう」
「うん、どうした?」
ばあちゃんは私だけをじっと見つめていた。昔のあのばあちゃんの目だった。大雑把でガサツ、だけど冗談でもおふざけでもない、あの目だった。
まさかばあちゃんに否定されるとは考えもしなかった。ええよとかいい人だとか、そんな笑顔を思い浮かべていたから、そのショックは大きかった。夕飯の時もほとんど無言で、彼の居心地が悪そうだった。
帰りの車で聞かれたけど、やんわりと躱したらそれっきりだった。
こんなに優しい彼に言えないよ。ばあちゃんがダメだと言ってたなんて。
だって私はその気なんだもん。
だから余計に辛かった。
それから数日後、実家に顔を出した。色々考えたけどやっぱり納得できない。何がダメなのか、それを聞いてからでないと判断できない。
判断できない……。
心変わり出来る気持ちじゃなかったけど、ばあちゃんと話すべきだと思った。このままだとわだかまりが残って、帰り辛くなると思ったから。
「ばあちゃん、私あの人と結婚したい」
テレビの音量を下げて、真剣に伝えた。
ばあちゃんは唇を真一文字に結んで、視線を彷徨わせていた。あの時とは打って変わって落ち着きがない。
こんなに真剣だとは思わんかったんか。
「止めた方がええ。絶対に。信じんさい」
私は小さいころ、授業参観が嫌だった。三者面談も運動会も嫌だった。ばあちゃんの事は大好きだけど、嫌だった。
プリントを隠して、私は1人で授業参観に行った。運動会も。でも三者面談はどうにもならない。部活で残っているクラスメイトにばあちゃんを見られたくなかった。
だから、病気だと嘘をついた。
そんな嘘、簡単にバレるのに、目先の事だけを考えて。
家に帰るとばあちゃんは静かだった。いつもなら、手を洗えだとか、うがいしろだとか言うのに、その日はおかえりも言ってくれなかった。
少しの寂しさと罪悪感を胸に、二階の部屋で蹲っていた。
大好きなばあちゃんが本当に病気になったらどうしよう。今日みたいにおかえりと言ってくれなくなったら……。
私は1人。
私が悪いのに、なぜか泣いていた。傷つけられたのはばあちゃんなのに、とても悲しくて大泣きしていた。そうしたらいつの間にか眠っていたようで起きたのは夜の九時。いつもなら眠る時間だ。すっかり冴えた目で階段を降りていくと、居間は明るくてバラエティー番組の笑い声が響いていた。
「ご飯食べるか?」
「――――うん」
枯れたと思った涙がまた溢れてしまった。嗚咽を漏らしながら、体中の水分を出し切るぐらいに。
「ピンピンしとんやけどなあ。病気してるように見えたんか」
涙で前が見えなかったけど、私は大きく首を振った。
「そうか。早く食べて寝」
数分、私は体を震わせて泣いていた。やっと落ち着いて、晴れた視界に映ったのは私を見るばあちゃんの顔だった。
今、目の前にあるこの表情だ。私を愛してくれる人が見せる、申し訳なさそうで、心配そうな表情。皺も目の潤みも、眉の下がり方も唇の形も、あの時と全く同じだった。
それから数日後、ばあちゃんは倒れてしまった。持病がかなり進行していた為だ。
それなのに頑なに入院を嫌がり、家に帰りたがった。病状が思わしくないからと病院の先生は引き止めたけど、ばあちゃんは聞き入れてくれなかった。
だから仕事を休みがちになり、実家に帰ることが多くなった。マンションから行き来できる距離だけど、夜中に何かあったらと不安で、泊まることが多くなった。
そのせいか、お互いに少しずつギスギスしていく。ほんの小さな事で怒鳴ってしまったり、私の言うことを聞いてくれなかったり。
こうなるからヘルパーさんに頼んだのに、こうなるから入院していてくれれば良かったのに。
その方がずっと安全だし、安心できるのに。
私の良くない癖が出た。
独りで抱え込んで、出来るだけ隠し通そうとする悪い癖が出てしまった。
実家にいる時間が長くなって、彼との時間は減っていった。ばあちゃんが嫌がるだろうし、そんな態度を彼にも見せたくなかった。それにばあちゃんの側を離れることもできなかったから、必然的に。
メッセージが来ても後回し。それよりもばあちゃんの薬のチェック。また飲んでない、お願いだから飲んでよ!
電話が来ても出られない。飯が不味いって……じゃあ買ってきたら食べるの?この前不味いって言ってたよね。何なら食べるわけ?
またメッセージ、電話、メール。
お願いだからテレビの音下げてよ、煩い、うるさい、ウルサイ、五月蝿いっ!
「ねぇ、何でなん?何で言う事聞いてくれんの!?そんなに私の事嫌いなん?それやったらヘルパーさん呼べばいいでしょっ!嫌だ嫌だって、子供みたいな真似せんでよっっ!」
抱えきれなくなって爆発する。こうなると分かっていたのに、どうにも出来なかった。ばあちゃんも頑固だから、話なんて出来る状態じゃなかった。
ピーンポーン。
引き戸を開けると、彼が立っていた。
「ああ、良かった。心配してたんだよ」
その日はダメだった。もう家に居てもどうにもならない。ヘルパーさんに無理言って来てもらい、私は彼と外に出た。
別に何をするわけでもなく、ちょっと歩こうと言われたから付いて行っただけ。
私は勝手に捨てられたなと思っていた。
既読のまま無視したり、メールの返事をした覚えもないし、電話に出てもすぐに切った。
別の女を作ってても、私が何か言えるはずもなかった。
「僕は辛いよ。話してくれない?まだ声も聞いてないよ」
私は全部ぶちまけた。どう思われるかなんて考えもせず、鬱憤を全てぶつけた。
私は頑張っている。何で応えてくれないのか。私は独りで耐えた。何で労ってくれないのか。何で嫌な顔を見せるのか。貴方はよその女と遊んでいると思ってた。てっきり別れたと思ってた。何で来たの?笑いに来たの?楽しかったでしょ?もう帰ってよと。
疲れ切った感情をぶつける為に、事実なんかどうでも良くて、想っていたこと全てをぶちまけた。
気づくと実家の前にいて、彼はまた来るよと去って行った。
子供の頃みたいに2階で泣いて、私は決めた。ちゃんと謝って、許してくれるなら頼ろうと。都合が良すぎるけど、私にとっては彼が支えだった。
それから彼は数日置きに来てくれた。
少し散歩してばあちゃんの事を愚痴って、クスッと笑ったばあちゃんの行動を披露して、ばあちゃんの病状が良くなった事を報告した。私の日常はつまらない。ばあちゃんと私が実家で暮らすだけの物語。それでも私の全てだったから、話した。
彼はぎこちない笑顔で答えてくれた。元々笑う人じゃない。それでも優しいから、つまらないことでも無理して笑ってくれていた。
その時間はとても大切で、ばあちゃんと私を生かしてくれるライフラインだった。
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