第一章 過去に住む君へ

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第一章 過去に住む君へ

「どう思います?」  カフェテリアのオープンテラス席で出来たてのエッグサンドを頬張り、私は尋ねた。  頭上に広がる薄水色の空は快晴。綿をちぎったような巻雲がわずかに飛んでいる。  北ヨーロッパ特有の長い冬が終わりを迎え、ここレストリア国北西部に位置するユーレビ州ノリスの町にもようやく雪解けの時期が訪れていた。西から近づく寒冷前線の影響で風はまだ冷たいが、降り注ぐ午前の日差しは数日前と比べて明らかな春の気配をまとっている。心なしか往来を行き交う人も増えた気がする。  私の前に座る男性はベージュのトレンチコートを羽織っている。それにグレーのハイネックセーターを合わせ、無造作な黒髪を整髪料で後ろへ撫でつけている。  そうしてきちんとした格好をしていれば高級住宅街の街角に立っていてもおかしくないのに、と内心ひとりごちた。  彼は分厚いキャラメリゼのかかったクイニーアマンをかじり、吐き捨てた。 「馬鹿馬鹿しい」 「でも彼の証言が事実だとすると」 「事実? 事実は奥方が姿をくらましたことだけさ。大方愛想を尽かされたか、彼女は痴呆で徘徊癖があるか……あるいは最愛の妻を亡くして狂ってしまった男の妄想というセンもあるな」 「不謹慎ですよ」  聞き捨てならない言葉に思わず丸眼鏡の下で眉をひそめる。向かいの席で博士は口角を吊り上げた。  ちょっと気取った格好をしていても口を開けばこれなのだ。このゲオルク・ユーベルヴェークという人物は。  博士はコーヒーを一口啜るとカップを持った左手の人差し指を立てた。 「現代の科学技術では、人間は絶対に時を越えることはできない。物理学がそれを証明している。今週の掃除当番と引き換えに講義をしてやろう」 「知ってます。アインシュタインの相対性理論ですよね。光速度不変の原理を前提とすれば、時間は相対するものによって流れ方が違う。自分が速く動けば動くほど周囲に対する時間の流れは遅くなる……理論上、光速に近づくことができれば未来へのタイムトラベルは可能だとされています。過去へ戻るにはさらに未確認の物質が必要ですけど……実際には、人間が光速に近づく方法も未確認の物質も()だ見つかっていません。掃除は自分で」 「つくづく憎たらしい子供(ガキ)だな君は。年甲斐に賢すぎる子供は万人から嫌われるぞ」  憎まれ口を叩く博士を無視して、私は店前の通りに目をやった。 「でも───本当にそう言い切れるんでしょうか。 とくにこの町では」  駅にほど近いシューザッハ通りには大勢の人が出歩いている。大多数が駅に向かうので人波に流れができている。  その様子は川に似ていた。流れを構成する一人一人にも人生という川があり、誰もがそれぞれの流れの中で生きている。  時間もそうだ。一方向へ一定の速さで淀みなく流れる大河だ。今から百年以上前に相対性理論が提唱されたからといって、光速に近づけない人間たちにとっては時間は相変わらず不可侵な神の領域だ。  しかし───もしもある日突然、自分だけがその流れから弾き出されてしまったとしたら。 「さっさと不憫な男の目を覚まして、報酬を受け取って帰るとしよう。叩き起こされた分の睡眠時間を取り戻さねばならんからな」 「まだ妄想と決まったわけじゃありませんよ」  いつの間にか博士は食事を終え、とっくに席を立って店を出ていこうとしていた。  私は慌ててエッグサンドの残りを口に押し込んだ。それから慎重に椅子を降り(なぜカフェテリアの椅子は不必要に脚が高いのだろう?)人混みを縫うように進んでいく博士の後ろ姿を追った。
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