2・遺命

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2・遺命

 夕日に照らされる小香寺の墓苑を、綱堅は咲弥と並んで歩いた。ここの境内では、綱堅は覆面を取り、のびのびと、昔の部屋隅時代のように自由に振る舞うことができた。瀬良咲弥とは、そんな部屋隅時代に知合い、共に早くに母を亡くした者同士として、意気投合したのであった。  三つ年上の咲弥は既に十八歳、寺小姓としては年を重ねすぎていた。  普通ならとっくに、住職からまとまった金を持たされて御家人株でも買って独立している筈である。だが、小柄で華奢な咲弥は、その少女の様な可憐な容姿も手伝い、まだ15、6のあどけない少年にしか見えなかった。故に、住職も中々彼を手放そうとはしなかったのである。 「おまえのおかげで、母上の墓はいつでも磨かれ、花に包まれておる。礼を申す」 「勿体なき仰せ。お以玖様には、この寺での暮らしの中、どれ程(かば)って頂きました事か。何より殿の御母堂様なのですもの、決して(おろそ)かには致しませぬ」  生母・以玖の墓前に膝を落とし、咲弥は花を手向けていた。月代も剃らずに伸ばしている黒髪が、綱堅の眼下で風に揺れる。その髪が揺れる度に、瑞々しい白い項が現れる。  立ち上がった咲弥を、綱堅は背中から抱き締めた。長身の綱堅の腕の中に、すっぽりと収まる咲弥の体は、温かく、心地が良かった。 「殿……」 「そう呼ぶ事は許さぬと言うた筈だ」  綱堅が咲弥の小さな耳朶を噛んでやると、くすぐったそうに咲弥が笑った。 「はい、公四郎(こうしろう)様」  公四郎とは、綱堅が跡目を継ぐまでに名乗っていた名である。 「お屋敷にお戻りを。今頃御家中は大騒ぎでございましょうに。大喪の礼ともなれば、名代を立てるだけでは済まされませぬぞ」 「またそのように小癪な物言いを」 「貴方様の肩には、領民達の命がかかっているのです、お忘れですか」 「年上面しおって。戻っても良いのか」  政治向きの事にも精通していた咲弥は、綱堅の良き助言者でもあった。  だが、今日に限っては、そのような無粋な話題を咲弥の口から聞きたくはなかった。  少し落胆した様に咲弥の体から手を離すと、咲弥がくるりと体の向きを変え、綱堅に向き直った。 「拗ねたりして、御可愛ゆらしい事」 「意地悪な奴だ……咲弥、笑ってくれ」  言われるまでもなく、咲弥は満たされた笑顔を綱堅に向けていた。橙色に染まる頬がふっくらとしていて、大きい半月型の双眸を縁取る長い睫毛は高貴な奥方の扇の様に艶やかだ。この世で最も愛しい笑顔であった。 「それで良い。美しい」 「殿……御可哀相に」  咲弥が、綱堅の頬を撫でた。  家臣達の前では殊更気を張って、能面の様な冷たい表情しか見せぬ綱堅が、咲弥の前では素直に疲れや甘えなどの真情を露にしている。これほどに自分を優しい眼差しで見つめてくれる綱堅の真の心根を思うと、咲弥には綱堅の今の境遇が幸せだとはとても思えぬのであった。 「水野家姫君とのご婚儀が整うたと、伺いました」 「所詮は政略。私には、おまえと過ごすこの時の他に、幸せなど有り得ぬ」 「嬉しゅうございます。そのお言葉を賜っただけでも、私はいつなりとも死ねます」  最後の言葉に、綱堅は驚いて咲弥の肩を揺さぶった。 「何ぞ、家中の者が申して参ったか」  だが、咲弥は、いつもの穏やかな笑みを見せるだけであった。これだけ艶やかな顔立ちだというのに、笑うと、名も無き野の花の様に素朴になる。飾り気の無い無垢な心の現れなのだと、綱堅はこの笑顔に絆されていた。 「貴方様は最早、雲の上の人。私の様な穢れた囲い者に触れてはなりませぬ」 「穢れ……お前は穢れてなどおらぬ」 「私は、浪人であった父の薬代の為にここへ売られて参ったのです。金で、身を売ったのです。ここのご住職様は御優しい方で幸運でしたが、買われた身に違いはありませぬ」 「咲弥……」  その桜色のふっくらとした唇を、綱堅は初めて吸った。そう、こうして唇を重ねるのも、二人はこれが初めてなのであった。 「私を愛しいとは、思うてくれぬのか」  そう真摯に問う綱堅の顔を見上げ、咲弥はほろりと涙を零した。 「憎らしい事を仰せになる。私にとってはただ一度の恋だと申しますのに」 「ただ一度などと」 「……公四郎様、御慕い申し上げております。殺されても良いと思う程に」 「今日に限って、そのような事ばかりを」  咲弥が、そっと綱堅の肩に頭を預けるようにしてもたれかかってきた。咲弥の方からこんな風に甘えてくるのは、初めてであった。 「どうしたというのだ、今日のお前は」 「お情けを、下さいまし」  抱いてくれと、咲弥は言ったのだ。  次の瞬間、綱堅は母の墓前の土の上に、咲弥を押し倒していた。綱吉が自分にしたように、綱堅は性急に咲弥を求めた。乱暴に袴を剥ぎ、咲弥の足を割って押し入った。寺小姓として長い間住職の相手を務めてきた咲弥の体は十分に潤って解れており、待ち兼ねた様に綱堅を受け入れた。  濃紺になりつつある墓苑に、咲弥の小さな呻きが響いた。睦み合う男女のように、悦びの声を奏でていった。 「殺して下さい、私をこのまま……」  途切れ途切れに、咲弥は繰り返した。何故殺せなどと言うのか、解らぬまま、綱堅はひたすら、深く繋がる事だけを欲した。  すっかり宵闇に覆われる中、二人は着物をしどけなく巻き付けた半裸の姿で、いつまでも肌を温め合っていた。  煌煌と輝き出した月を、黒い影が横切った。 「男なぞに、何故生まれたのだ」 「神仏の、これもお導きかと。私がどこぞの町娘に生まれていたら、こうして結ばれることもなかったでしょう。貴方様と出会えぬくらいなら、生まれて来ない方が良い」 「切ない事を申すな」 「来世もきっと、あなたのお側に生まれて参ります」  矢庭に、咲弥は綱堅の腕の中から転がり出て立ち上がった。その手には、何時の間に引き抜いたものか、綱堅の小刀が握られていた。  と、何をするつもりか全く見当のつかぬ綱堅の周りに、黒い人影が幾つも現れた。 「殿、お下がりを」  影は、そう言って綱堅と咲弥の間を遮るように立った。  忍だ。  一色家には代々仕える忍の一派がある。篠笛組(ささぶえぐみ)と呼ばれる、武田忍の流れを汲む吾妻忍(あがつましのび)の末裔だ。  組頭は、藩内では中級藩士の身分にある篠田(しのだ)家が、その術と共に代を継いでいる。  何故、篠笛組がここに現れて自分の前に立ち塞がっているのか……。 「逃げよ、咲弥! 」  影達の目標が咲弥であると悟った綱堅が、影の頑健な背中を押し退けて咲弥へと走りよろうとした。  ゆっくりと、咲弥が手にしていた小刀の刃先を、己の白い首筋に当てた。 「公四郎様、良き(まつりごと)をなされませ」 「咲弥、待て、咲弥! 」 「来世も、貴方様のお側に……」  咲弥は迷いの無い笑顔を綱堅に向けたまま、持っていた脇差しで己の首筋を思いきり()いだ。細い体が、くるくると螺旋(らせん)を描いた。 「うわぁ! 」  夜目にも鮮やかに、血飛沫が上がった。  音も無く、咲弥の華奢な体は地面に(たお)れた。 「陰間にしては、骨のある死に方をする」 「さ、触るな、下がれ下郎! 」  影は、主君の制止など歯牙にもかけず、咲弥の心の臓に止めを刺して絶命を確かめると、主君と認めるに非ずとでも言いたげな不遜な態度で、慇懃無礼にも膝を折った。綱堅は脇差しを抜き、黒布に覆われた肩口に、刃を当てて金切り声を上げた。夜叉の如く吊り上がった目尻からは、止めどなく涙が流れている。心の衝撃が体に、激しい怒りとはあべこべな反応をさせているのだろう。  綱堅自身、何故頬が濡れているのか解らぬかのように、目元を乱暴に手の甲で拭った。 「だ、誰の命じゃ、じいか、国許の家老か」 「篠笛組はあくまで殿のご下命のみにて動きまする。ただし此の度の事は先代様の御遺命。水野家との婚儀の障害は全て取り除けと」  刃を指で弾き、影は風の如く姿を消した。  綱堅は一人、咲弥の側に座り込んだ。  まるで、こうなる事を全て予見していたかの様な、疑問も憤怒も何もない、実に穏やかな笑顔のまま、咲弥は冷たくなっていった。 「許せ……許せ」  闇にも映える美しい死に顔を、綱堅はいつまでも撫でていた。  
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