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――さて。
リックとアナの家にいた頃の僕に、浮いた話が「何も」なかったかっていうと、実はそうでもなかった。
初めて「付き合った」といえるような人に出会ったのは、十七歳の時だった。
リック・ジョーンズの勤める大学では、交換留学生を受け入れていて、夫妻は時々ホームステイのホストを引き受けていた。
滞在は、せいぜい一セメスター、数か月くらいという人が大半。長くても半年だ。
もっとこっちで勉強を続ける気になった人は、自分で部屋を探して出て行くからね。
色んな国の子が来たけど、僕は問題なく付き合っていた。
中にはしばらく、メールのやり取りをするような友達になった人もいた。
そういう訳で、リックが「今度、日本からの留学生をステイさせることになった」と夕食のチーズマカロニを食べながら話し出した時も、僕は特別なんの感想も抱かなくて、なんとなく聞き流していた。
でも、以前ステイした韓国からの女の子が、僕に興味を示してきた時には、ちょっと閉口した。それでふと、そのことを思い浮かべてしまったけど。
そんなわけで、僕がハイスクールから戻って、大急ぎでキッチンに駆け込んだ時――その日は、僕が食事当番だったから――ダイニングテーブルに眼鏡をかけたアジア系の男の人がいたのには、一瞬、驚いてしまった。
そういえば。今日来るって云ってたっけ……。
僕は頭の中で、リックが云っていた彼の名前を一生懸命思い出そうとしながら、バックパックを肩から下ろし、床に置いた。
「君がジャック=バティスト? わたしはタケシ、タケシ・ニカイドウ。どうぞよろしく」
テーブルに頬杖をついて座っていた男性は、椅子から立ち上がると、僕に右手を差し出した。
彼は、背は僕よりも十センチは低かったし、掌の肌はすべらかだった。
まるで女の子の手みたいだなと、僕は感じた。
握手の後、彼はほんの少し唇を上げた。
微笑んだのかもしれない。でも、あまりにも控えめなので、その表情の意図が、僕にはよくわからなかった。
「えっと。今日は僕が食事当番なんだけど、タケシ、食べられないものとかある? ベジタリアンだとは聞いてないけど」
僕はそう云いながら、手を洗って、冷蔵庫の中を覗いた。
昨日の段階で特に買っておくべきものはなかったはずだ……。
とはいえ、今日タケシが来るって判ってたらもう少し献立を考えておくのだったのに。
「特に食べられない物はないけれど……」
タケシは、ごく小さな声でゆっくりと返事をした。あまりに小声だったんで、僕はタケシの話を聞くために、一旦、後ろを振り向かなければならないほどだった。
「……あ」
タケシは、右手を顎のところに持っていくと、云いにくそうに続けた。
「牡蠣は食べられないんだ」
「牡蠣?」
僕は意外な食材の名前が出てきたので、ちょっぴり面食らった。
「好きなんだけど、食べるとおなかを壊すから」
タケシは云った。
「この家ではあまり牡蠣を食べる習慣はないから、心配しなくていいよ」
僕はタケシにこう請合った。でも、僕の返事を聞いたタケシは、ちょっと困ったような表情を浮かべてみせた。
なぜなんだろう? 安心させたつもりだったんだけど。
「じゃあ、タケシの好きなものは?」
僕はタケシに続けて聞いた。
タケシはまた、手を顎のところに持っていくと、少し考えこんでから小声で答えた。
「中華料理、かな……」
「中華料理? タケシって日本人なんでしょ?」
僕は、またちょっと意外に思った。
「僕も中華料理って好きだよ。でも、自分じゃ作れないけどね」
続けて僕はタケシに訊いてみた。
「タケシは作れるの? 中華料理」
タケシは微かに笑って頷いた。
「じゃあ、当番の時にぜひ作ってよ。あ、この家じゃ、アナとリックも入れて当番で夕食を作るんだよ」
僕は冷蔵庫から今日の夕食の材料を取り出した。
「あと、当番の人が作った食事は文句を云わずに食べることがルールなんだ。僕はあんまり料理得意じゃないからね、先に云っておくよ」
そういって、僕はタケシに笑って見せた。
「……わたしもこの家の皆さんの食べられない物を伺っておいた方が良いですね」
タケシが大真面目な顔で僕に尋ねた。
「うん、でも、そんなに直ぐに当番をさせたりしないよ。ここに慣れるまでは。そういうことも、後でリックやアナが教えてくれるし」
僕が調理を始めると、タケシはまた、小声で少し言葉を詰まらせながら云った。
「なにか手伝えるかな? ジャック=バティスト」
正直、今日の献立はチーズマカロニ、すなわち、僕の数少ないレパートリーの中の最も簡単なもののひとつ――だったから、手伝いも何も必要なかった。
「大丈夫、直ぐできる。でも、今日、君が来るってことうっかりしてて、簡単な物しか作るつもりにしてなかったから。ごめんよ」
タケシは、僕に首を振って見せたけど、それは一体なんについてのことなのか、僕には良く判らなかった。
タケシはそのまま、少しの間、その場に立っていた。そして、部屋で休んでいていいかと僕に尋ねた。
「もちろん」
「本当は眠らない方が、慣れるためにはいいんだろうけど、とっても眠くて」
タケシが云った。
「日本とここじゃ、その、えっと時間が違うから……」
「ああ『時差ぼけ』っていうやつ? 日本は遠いよね、どれくらい飛行機に乗るの」
「うーん……十三時間位かな」
タケシは考えながら答えた。
「十三時間! ずっと座りっぱなしかい? すごいね」
僕はマカロニにかけるソースをかき回す手を止め、思わずまた、タケシの方を振り返った。
「心配ないよ、食事の時間には起こしてあげる」
僕はタケシに約束した。
少しして、アナが学校から帰ってきた。僕がちょうど暖めたオーブンにマカロニを乗せたバットを入れたところだった。
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