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7 タケシの食事当番が、何回か回ってきた後くらいのことだった。 湖をわたってトロントに吹く風を、頬に冷たく感じはじめる頃。 その日は土曜日だったけど、早朝から慌しかった。アナのヴァンクーヴァー行きのフライトが、かなり早かったからだ。 ヴァンクーヴァーでは、アナの所属している教育関係の学会が開かれる事になっていた。リックもそれに合わせて休暇を取り、ともに旅立っていった。 何日かは西海岸(むこう)で観光して過ごすらしい。 僕も一緒にと誘われたけど、断った。お邪魔はしたくないからね。 それに、タケシを家にひとりで置いていていいのか、まだちょっぴり気がかりだったし。 車に荷物を詰め込んで、ふたりが出ていってしまうと、急に家の中に静けさが戻ってきた。 冷蔵庫のモーター音だけが、張り切ってるみたいに鳴り響いていた。 僕はおそろしく空腹を感じた。 リックとアナは、時間がないから朝食は道中に取るといって出かけたから、僕はその朝、まだ何も口にしていなかった。 そもそも、こんなに朝早く起きていたのも。 リックとアナを見送るためではあったけど、実のところ、おなかが空いて目が覚めたんだ。 今はもう、そういうことはめったにないけれど、当時、僕はまだ十七歳だったからね、なんといっても。 僕は冷蔵庫を開けて中身をチェックした。そして、タケシの部屋の方に行くと、ドア越しにそっと声を掛けてみた。 「タケシ、起きてる? 起こしちゃったらごめん。アナとリックは出かけたよ」 部屋の中のタケシは、もう目覚めてはいるような感じだった。 「僕はお腹がすいているから、今から卵焼いたりするんだけど。ついでだからタケシも食べる? もちろん、まだ寝てるならいいんだよ、聞いてみただけ」 ドアの向こうからは、眠そうではあるものの、明確な肯定の返事が聞こえてきた。 そうそう。 そのころには、僕はタケシに否定疑問文で物を訊ねるのを控えるようになっていた。 例えば……窓を閉めちゃ駄目かな? とかそういう訊き方。 タケシから、何度かビックリするような返答を受けた後、気づいたんだ。 こういう時のタケシはどうしてだか、NOをYESと云い、YESをNOと云うんだ。 さて、この際、冷蔵庫を総ざらいだ。 リックとアナがいないから、早々に食べきってしまっておいた方がいい物もある。 そして、僕は卵をスクランブルにしたり、コーヒーを淹れたりした。 テーブルには、ハム、チーズに解凍したパンケーキとメープルシロップを並べる。 身支度を終えたタケシが、眼鏡のレンズをシャツの端で拭きながら、ダイニングにやって来た。 「すごいご馳走だねぇ」 タケシは掛けた眼鏡を更に押し上げると、少し離れたところからテーブルを見やった。 「どれも冷凍食品だよ」 僕はディッシュクロスを戻しながら、タケシの方を振り返った。 タケシは、しばらくテーブルの側に立ったまま座ろうとしなかった。 今日は僕たちだけしかいなかったから、いつものように自分の横にタケシの席をセットせず、僕の目の前の、リックの席の前にランチョンマットを置いていた。だからかもしれない。 僕は、この家で一番大きなマグカップにコーヒーとミルクをいっぱいに注いだ。そしてそれを手にして、自分の席に先に腰掛けた。 タケシは僕が食べ始めてから、やっとリックの席に座り、フォークとナイフを手にした。 メープルシロップの壜をタケシの方に寄せて、僕はタケシに声を掛ける。 「勉強、大変そうだね」 そして、コーヒーをひと口飲んでから続けた。「昨夜も、部屋に遅くまで明かりがついてた」 タケシはスクランブルエッグをすくったフォークを、一旦、皿に置き、ゆっくりした口調で応じた。 「皆の英語のスピードについていけなくてね。読むのもまだまだ遅いから」 そしてタケシは、眼鏡の奥の細い眼をさらに細める。 なにか励ましの言葉とか掛けるべきだよな、と思いながらも、僕は何も良い言葉が浮かんでこなかった。 僕は言葉のわからない外国で勉強したことなんかなかったからね。 タケシは静かに卵を口に運んだ。そして、今度は僕の方に視線を向けてこう云った。 「ジャック=バティスト、君はバイリンガルなんだろう? 羨ましいな……」 僕はコーヒーサーバーを持った手を止める。 「それは、そうともいえるけどさ。でも、英語とフランス語は良く似ているところがあるし。両方判るって、そんなに難しいことじゃないよ」 そして、タケシのカップにコーヒーを注ごうとしたが、彼のカップの中身はまだほとんど減っていなかった。 「日本語と英語っていうのは全然違うんだろう? 大変さの度合いが大きいよ」 良く判らないけど、僕はそう云ってみた。 ただし、僕がその時知ってた日本語といえば、映画なんかでよく聞く「ドウモアリガト」ぐらいだったけど。 じきに、僕はあらかた自分の皿を食べ終えてしまう。タケシはといえば、あまり食が進んでいないようだった。僕は心配になりタケシの顔を覗き込む。 「よかったら、僕の分もお食べよ」 タケシがそういって軽く自分の皿を動かした。 「すごく美味しいけどね、さすがに君みたいには食べられないな。やっぱり若いんだね……いや、バスケットボールをしているからかな?」 僕はタケシの申し出に遠慮なく従うことにした。 フォークを持った手を、タケシの皿の上に伸ばしパンケーキとハムを行儀悪く突き刺す。 「タケシさ、そんなこと云うけど。君、僕とそんなに年齢変わらないだろう? 二十二? 三?」 まあ、見た目はもっと若いけど、という言葉はパンケーキと一緒に飲み込んで。 タケシは、僕の質問には答えず、少し唸ってからこう云った。 「いつも不思議なんだけど……君たちは、メープルシロップと一緒にハムが食べられるんだねぇ」 「何? なんのこと」 タケシの発言の意味が、僕にはまったく理解できなかった。 「いや、あのね。パンケーキにも皿にもたくさんメープルシロップが掛かっているだろう? だからハムにもかかってるよね」 ……それがどうしたって云うんだろう? 「日本じゃ、甘いソースを食事の時に掛けたりはしないからね。メープルシロップはパンケーキにだけ掛けるし、パンケーキ自体どちらかというとお菓子みたいなもので……」 僕は少し首を傾げて見せながらも、タケシに話の先を促した。 「ピザのチーズとサラミの上にパイナップルが載っているのも、よくわからないんだよねぇ」 タケシはそういって一度口をつぐんだ。 なんだろう……日本人は甘い食べ物が嫌いってことかな? そこで、僕はタケシにこう云った。 「メープルシロップを厚切りのハムに掛けて焼くステーキだってあるよ」 タケシは僕の言葉を聞いて、しばらく黙ってから云った。 「うん、僕の言い方は正確じゃなかったな。日本も甘辛いソースを掛ける料理はあるね、照り焼きとか」 「テリヤキは知ってるよ。ハンバーガーだろう?」 僕はまたタケシの皿のハムにフォークを伸ばしながら云った。 「それももちろんだけど、もともと、テリヤキは魚が多いね」 「……サカナ?」 今度は僕が疑問を呈した。 「サカナを甘くして食べるの?!」 ハムより、そっちの方が驚きだよ。 結局、僕はタケシの皿のものも、ほとんど全部食べてしまった。 ふたりで食器類をシンクに移したり、ディッシュウォッシャーに入れたりしている時、タケシが僕に訊ねた。 「今日は、どこかに出かける予定でも? ジャック=バティスト」 なにげなく聞こえるよう、タケシが最大の注意を払っているように聞こえた。 皿に残ったシロップや食べ残しをペーパータオルで拭いながら僕は答える。 「ううん。特には」 「でも、学校は休みなんだろう?」 タケシは、僕から皿を受け取ると、それを几帳面にウォッシャーの中に置いた。 「そうだね」 僕が答えると、タケシは少しためらってから再び口を開いた。 「良かったら、ダウンタウンに少し付き合ってくれないかな……まだ、どこにも行ったことがなくてね」 「そんなこと、お安い御用だよ! ぜひ行こう。タケシもたまには息抜きしなくては」   つまりは、そんな風にして、僕たちはその日、市内に出かけていった。
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