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さまざまな説明がすべて終わり、僕たちカデットはお互いに騒がしく話し合いながら(バラック)へと戻って行った。 割に年嵩の、おそらく大学を卒業したてのカデットが、したり顔で繰り返してたよ。 「一番出世するのは、あのフィットネスとタクティクスの教官だろうな。ハンセン警部補。あれが教官の中で一番クレバーだ」と。 そう。スタンレイ・ハンセン教官は、当時のあの年齢で、すでに警部補(スタッフ・サージェント)だった。 それが相当に「異例の出世」だってことも、その後すぐに、僕たちは知ることになるんだけど。 僕が彼に――スタンレイ・ハンセン教官に、直接「スタン」と呼びかけることができるようになったのは、アカデミーの卒業後、随分と時間が経ってからだ。 でもね。 アカデミーにいる時から、僕は心の中で、勝手に彼を「スタン」と呼んでいた。 ……ちょっと恥ずかしいかな、そういうのって? アカデミーでの思い出は、ほとんどスタンに関係することばかりだ。 まあ要は、僕は彼しか見てなかったってことなんだろうけど。 もちろん、「そんな気持ち」が同期には絶対バレないようにと、細心の注意を払っていたよ。 「そういうの」は、施設にいた時からずっとやりつけていて得意だった。   アカデミーの訓練は、思っていたよりも座学が多かった。 事前にカリキュラムを見ていれば分かることだったけど、約二百から三百時間の全単位のうち、かなりの部分が教室での授業に割かれていた。 だからって、僕たちカデットは、体を鍛えないわけにもいかない。 アカデミー卒業のための体力基準は、しっかりと定められているからね。 結局、午後四時半以降のフリータイムをつぶして、各自ジムやプールでメニューをこなしたり、時には、アカデミーが主催する各種のアクティビティーに参加したりするはめになった。   そんな僕たちにとって、朝一番や昼食後の講義は、睡魔との闘いだった。 とはいえ、スタンの講義だけは別だ。 僕の席は教室の右奥だった。 目の前に放射状に座っている同期たちを眺めている限り、たとえどの時間に行われていたとしても、スタンの講義だけは、居眠りしそうになってるカデットなんかいやしなかった。 スタンが怖いからっていうのも、もちろんある。 でも、スタンの講義は、とにかく解りやすかったし聞き取りやすかった。眠気をもよおすような退屈さとは無縁だった。 え? そもそも講義が「聞き取りにくい」ことなんかあるのかって? いるんだよ、何を喋っているのかよくわからない教官って。 別に訛りがヒドいとか、そういうことじゃないよ。 なんていうのかな。こう、一事が万事もごもごと。何が言いたいのかもよく分からないっていうかさ。   でも、ああ、そうだ。 ある日、僕の目の前のカデットが睡魔に耐え切れず、首をコクリとやらかしてしまったことがあった。 よりにもよって、スタンの講義で! それは、装備のメンテナンスについての講義だった。 スタンはストリッピングしたハンドガンの構造について説明をしていた。 金曜日の十五時十五分からの講義。 居眠りしたくなる気持はよく解るよ。極限に疲れる時間なんだ。   カクリと、そのカデットが船をこいだ瞬間、スタンのよく響く低い声が、不意に止まった。 教室内は、それこそ「ピンの落ちる音が聞こえるくらい」に静まりかえる。 そして僕の目の前の「居眠り訓練生(カデット)」は、あろうことか、その瞬間に、一息イビキをかいたんだ! 午後の日差しのせいで、教室はすこし汗ばむくらいの温度だったのに、僕たちは、自分たちの血が、一瞬で凍りついたような気がした。   スタンは、眉ひとつ動かさなかった。 もう既に僕たち訓練生(カデット)の同期内で広まっていた「ストーン・コールド」という二つ名どおりの冷徹な表情で、居眠りカデットのもとに歩み寄る。 「カデット=ハッチンソン」 そう呼びかけ、スタンはハッチンソンの椅子の肘かけに静かに手を置いた。 そして軽く上体をかがめながら、低く静かな、だけどそれ以上の威厳というものはありえないような声色で、もう一度、彼の名前を呼んだ。 教室中が息をつめ、ことの成り行きを見守っている。 僕はというと、すぐ目の前に置かれた、スタンの大きな手と綺麗な形の爪から目が離せなくなっていた。 スタンからは、初めて彼を見た時と同じオードトワレの香りがしていた。 なんだか眩暈がした。 「ハッチンソン訓練生」 スタンが、もう一度呼びかけた途端、僕の気の毒な同期生は飛び起き、椅子から転がり落ちそうになった。 「私の話はどこまで聴いていた?」 スタンの視線は、まるでハッチンソンの目と脳みそを通り抜けて、僕にまで突き刺さってくるようだった。 その瞳は、真冬の空みたいな、冷たい水色。 「ストーン・コールド」と云うより「アイシング・コールド」って云ったっていい足りないかもしれない。 気の毒なハッチンソンは、口中に溜まった唾液を呑み込むことすらできないくらい硬直していた。  スタンが、ごく微かに溜息をつく。 でも逆に、その「微かさ」が教室中のカデットの心に、氷の矢みたいに突き刺さるんだけど。 そしてスタンは、ハッチンソンに訊ねた。 「カデット=ラルフ・ハッチンソン、RCMP警官の職務中の死傷事件において、何%が銃火器によるものか回答してほしい」 「ラルフ・ハッチンソン訓練生」は、声を出すことができないようだった。そして、やっとのことで首を振って「判らない」と返答した。 スタンの問いに対する答えは、ハッチンソンの目の前に開いてあるテキストの一番上に書いてあったんだけど。 スタンは、続けて質問する。 「それでは、その中の何%が銃火器の『誤った』取扱いによるものだ?」 ラルフ・ハッチンソンは、再び首をふった。声はまだ出せないみたいだ。 スタンは、ハッチンソンの椅子の肘かけに載せていた自分の手をゆっくりと上げる。そして、両腕を胸の前で組んだ。 「ハッチンソン訓練生、次回の私の講義開始までに、過去十年間に報告されたRCMP警官の銃火器取扱ミスに関する案件をすべて掲げ、原因ならびに防止策を付したレポートの提出を命じる。所定の時間までにレポートが提出されなければ、君はこの講義の単位は取得できない。また、提出されたレポートの内容如何によっては、同様に単位取得を認めない。質問は?」 スタンの言葉の後、一呼吸の間があった。 ハッチンソンはやっとのことで唾を飲み込む。 教室中のカデットも、思わず、同時に唾を飲み込んでいた。 「以上」 スタンはそう云って、再び教室の前方、スクリーンの方へ戻って行った。 この金曜の最終講義が終わった後、教室を出るカデットたちはいつになく無口だった。 隣に並んで歩いていたリック・ハミルトンが、ごく小声で、僕に囁きかける。 「なんなんだろうな、『あれ』?」 「あれって?」 僕は一言だけ、リックに訊ね返した。 「スタンレイ=『ストーン・コールド』だよ、あの『迫力』っていうの? 正直、タマが縮みあがっちまったぜ、オレ」 そういってリックは、肩をすくめ、小さく身震いをして見せた。
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