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「ほら、やっぱり彼ってすごく厳しいんでしょ?」
ブロンドが、僕の方を見て話しかけてくる。
対応に困り、僕は軽く肩をすくめてリックへ視線を向けた。
「ああ、とはいっても、そう簡単にマイナス評価を付けることはないらしい。何とかついていけてれば大丈夫だってさ」
どこで仕入れた情報なのか、リックはブロンドにそんな説明を始めた。
「そうだといいけど、今日のハッチンソンは……」
さっきの「事件」を思い出し、僕はつい、そんなことを口にしてしまう。
「まあ、あれはホントに単位貰えなさそうだったよな、もしレポートが出せなかったら」
リックが軽く鼻を鳴らした。
「なに、それ。今日って、単位って? 何の話?」
唯一、現場に居合わせなかった縮れ毛が身を乗り出す。
僕らと一緒の教室でないってことは、フランス語でのコースを受けているのだろう。
ケベックに長く住む家の出身なのかもしれない。
「ケベコワ」としては、連邦の公的教育機関で国の公用語たるフランス語での教育を確実に保証させなければいけないからね。実際の必要性の有無にかかわらず。
僕の中では、もうすでに、ケベック・シティでの暮らしは遠いものになっていた。
でも、縮れ毛の彼女を見ていると、かつて施設で過ごした日々が思い出されたよ。
リックは身を乗り出して、今日の「ラルフ・ハッチンソン居眠り事件」の顛末を、縮れ毛のカデットに聞かせてやっていた。
座学の講義は使用言語でクラス分けされているけれど、実技になるとほとんどが統合される。
だからこの縮れ毛の彼女も、僕らと同じくいずれはスタンの「シゴキ」を受ける身分であることに違いはない。
「そういえば……ラルフ。どこかな?」
僕は周囲に視線を走らせた。
ハッチンソンは二人掛けのテーブルにひとりぼっちで、トレイを前に座り込んでいた。
まさに「暗雲が立ち込めている」としか表現しようがない空気に包まれているハッチンソンに、話しかける者もいない。
「あいつ、あんなエグいレポートなんか、やる暇あるのかね」
僕の視線の先にラルフ・ハッチンソンを見つけたリックが云う。
「それは……ウィークエンドを潰してでもやるしかないんじゃない? なんっていったってファイアアーム・タクティクスの単位がかかってるんだもの」
ブロンドの黒ぶち眼鏡は、あくまでもシビアだった。
「それにしても『過去十年分の事例調査』なんて、相当やっかいね」
縮れ毛は、少々同情的だ。
「やれやれ、辛気臭い顔していやがるな、ラルフのヤツ」
リックの言い草は、まるきり他人事だった。
もしかしたらハッチンソンの境遇に陥ったのは、リックだったかもしれないのに。
だって、これまで僕が見てきた中で、講義で真っ先に居眠りしているのは、大抵はリックだった。
どちらかといえばハッチンソンは、そんな醜態を晒すことなど、めったになかったヤツなのに。
僕は心底、ラルフ・ハッチンソンが気の毒になってきた。
「ちょっと、ラルフに声をかけてこようかな」
「やめとけよ、ジャック」
リックがすかさず、僕に云う。
「なぜだい?」
「なぜって……『レポートを手伝ってくれ』とか云われたら困るだろう?」
「そんなこともわからないのか、おまえ?」とでもいう風に、リックは吐き捨てる。
自分がアカデミーを修了できて、めでたく巡査になれたとしても、リック・ハミルトンをパートナーにするのだけは遠慮したいな……って、僕は正直、そう思った。
それ以上、「スタンの鬼教官ぶり」について話す材料も持ち合わせていなかった僕たちは、それぞれに食事の済んだトレイを手に席を立った。
スタンの実技の授業が――とてもじゃないけど、そんな噂話なんか気楽にしていられるような代物ではなかったってことは。
僕らみな、すぐに思い知ることになるんだけどね。この時には、まるで「知るよしもなかった」んだ。
そうだな――
同期のショーン・リーガンが、顔を合わすたび「いまだに夢に出てくる」と云い続けているスタンの授業が、一体どんなものだったかっていうと。
銃火器のタクティクスの実技では、ホルスターからガンを取り出し、的に照準を合わせるまでに、たとえ一動作でも、たった一人でも、誰かが指示に従っていなかったら、そこですべてが「ストップ」される。
ミスったカデットと同じレンジに並ぶ数人は、全員で全動作を「一からやり直し」になる。
だから、なかなか発砲させてもらえない。
中腰や腕の曲げ伸ばしを幾度も幾度も繰り返すから、「肉体的」つらいていうのは、もちろんある。
けれど、それよりもむしろ、「精神」の方がひどく消耗するんだよ。
もう、早くトリガーを引きたくてたまらなくて、どうしようもなくイラつくんだ。
「もう、いい加減にしてくれ」
あるカデットは、ほとんどスタンの耳に入りそうなくらいの声で、こう呟いたこともある。
いっておくけど、スタンの授業が、ただ非合理的に厳しかったワケでは決してない。
アカデミーを卒業してから銃撃戦を経験する度、僕は「必ず」といっていいほどスタンの訓練に感謝することになった。
だって、あのおかげで僕は、たとえどんな状況下でも、完璧なシューティングフォームで銃撃に臨めるんだ。
恐怖で体がすくんでしまいそうな時でも、右手をホルスターにかけた瞬間から 何も考えずとも体が勝手に動き出すからだ。
なにより、完璧な銃火器の取扱いは、どんな時でも味方を、そして自分を傷つけることがない。
警官人生が始まってから、それを思い知らされるような経験は何度もあった。
たとえば、トリガーセイフティが完璧なグロックを装備させられてるっていうのに、西部開拓時代のカウボーイみたいにホルスター越しに自分の靴に穴をあけてしまったり、パニックを起こしてパートナーの肩を打ち抜いたりするような同僚に出会ってしまったっていう経験がさ。
ウソじゃない。
どれも、ホントにあったことだ。
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