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自室に戻ると、僕の二人のルームメイトのうちの一人、ラース・シェーンバーグが椅子に座り、新聞を広げていた。
僕がドアを開けて部屋に入ると、ラースが新聞から顔を上げる。
ラースが何歳なのか、ハッキリとは知らなかった。聞いてみたことがなかったから。
多分、僕より四、五歳は年上だったんじゃないかな。
彼はスタンと同じぐらい背が高かった。でも、スタンより少し線が細いって感じだ。
そりゃ、スタンだって「熊みたいな体格」とは云えないけどさ。
でも、ラースの方はなんというか、もう少し違っていた。
そう……「頼りない」という表現が一番似つかわしいような、そんな印象があった。
さらにラースは、自分の存在をあえて目立たせないようにしているみたいに思えた。
でも、彼の成績はトップクラスだったし、ランニングも良いタイムだった。
なにより、ラースのシューティングの腕前ときたら相当なものだった。
だってさ、「標的のどこかに弾丸を当てる位のことはできる」という、スタンから得られるものとしては「最上級」ともいえる賛辞を受けたのは、同期の中で、ラースただ一人だったしね。
元々、ラースは僕たちのルームメイトではなかった。
ちょっとしたトラブルで部屋割りが変わり、僕たちの部屋にやってきたんだ。
僕の部屋は、最初は三人部屋に、二人だけの配置だったから。
「トラブル」といっても、別にラース自身が原因じゃないんだ。
色々な人間関係が考慮されているうちに、彼が玉突きのように、僕らのところに回されてきたってだけで。
他人とトラブルを起こすどころか、ラースが誰かと親しく会話をしているところすら、僕はあまり見かけたことがなかった。
それでいて、彼はけっして孤立しているわけでもない。
なんていうか、「透明なバリアーをはって他人からの過度の干渉をひそやかに防御している」っていう感じがした。
そして、ラースのそんな態度は、僕らルームメイトに対しても同様だった。
僕がラースと「おはよう」、「おやすみ」、「バスルーム使っていい?」以外の言葉を交わすことなど、めったになかった。
どちらかといえば僕も、他人との会話に、それほど積極的な性質ではない。
だからラースの、そんな「ちょっと風変わりでとてつもなく無口な性質」に、好感に似た感情すら覚えても、決して嫌悪する気持ちは持たなかったんだ。
部屋に入ってきた僕に軽く頷いて見せた後、ラースはすぐにまた、新聞へと視線を落とした。
手にしているのは「ナショナル・ポスト」のようだ。
その横には読み終えた新聞が、各種積まれていた。
どれも「グローブ・アンド・メール」や「ナショナル・ポスト」のような、いわゆるクオリティーペーパーばかりだ。
もう一人のルームメイトのサム・ブラウンバックは、ラースに「新聞男」ってあだ名をつけていた。
だから、「ラースが寮の部屋で新聞読んでいる光景」っていうのは、アカデミー時代の記憶として、僕の頭の中にすごく焼きついている。
スタンからの呼び出しの後、部屋に戻ってきた僕は、いつもと少し、気分が違っていたんだと思う。
特に必要もないのに、ラースに話しかけてしまったんだ。
そんなこと、普段なら絶対にしないのに。
「やあ、ラース。何か面白い記事でもある?」
「お前は、なにが面白いと思う? なに興味が」
紙面から視線を上げ、ラースが僕に訊き返した。
問い返されるとは思ってなかった。
ちょっと困ったけれど、少し考えてこう答える。
「……そう云われると、よく分らないな。ラースが面白いと思った記事は?」
「『面白い』と思ったものは特になかった。だが、それに近い印象ものを考えると……」
ラースは持っていた新聞を閉じ、今一度、僕の目を見ながら、記事の見出しとその掲載紙名を列挙していった。
十五くらい挙げたところで、ラースは口をつぐみ、軽く肩をすくめて見せる。
そのジェスチャーの意味するところは、「まあ、こんなところかな?」ってことなんだろう。
「読んだ記事。そこまで詳しく、全部覚えているの?」
思わず、僕は訊き返す。
ラースは「問いを理解しかねる」とでもいう風な表情を浮かべた後、軽く頷いた。
「へぇ、すごい記憶力だね。僕には無理だな」
「コツがあるだけだ」
ポツリと応じ、ラースは再び新聞を手に取った。
そうだ。身長以外で、ラースがスタンと似ているところが、もう一つあった。
声の低さだ。
二人とも、真性のバスの音域だった。
もしここに「コーラスサークル」があったなら、勧誘を受けまくっていただろうな。
だってさ、「最近はバリトンパートですらメンバーを探すのが難しい」って、アナがよく云ってたから。
そうそう、アナは教頭になる前は、ずっとシニアハイのコーラス部で指導をしていたんだって。
ラース・シェーンバーグは「ハンサム」と云い切って、まず間違いないようなルックスの持ち主だ。
ただ、そういった安直な形容は、彼にはしっくりこないと僕は思っていた。
それはきっと、無口で物静かで気配を感じさせない……といった、ラースの独特のムードのせいなんだと思う。
淡いベージュのようなラースの金髪は、ひどい猫毛のせいで、始終寝ぐせがついていた。
本人ももう、それを整えるのを諦めているような感じだった。
ホント、ラースときたら、毎朝、あまりにも「斬新」な髪型をして起きてくるものだから、あれには、本当に笑えたよ。
彼の瞳の色は淡い淡いブルーだったけど、スタンのように澄み切った色ではなくって、灰色がかったやわらかい色だった。
全体的にラースを包む色彩は、淡くてスモーキー。
いい方を変えると、少し「くたびれた」感じかな。
新聞記事に関するラースとの会話が一区切りついても、僕はまだ、何となく手持無沙汰な感じがしていた。
なので、ぼんやりと立ち尽くしたまま、素早く、でも不思議なほど音をたてずに新聞を捲るラースの長い指を眺めやっていた。
ラースが机の前に座って新聞を読んでいる様子は、何とも窮屈そうだった。
彼が長い手足を折り曲げて座っているのは、まるでクモみたいだったし、膝がどこかにぶつからないよう、いつも斜めを向いて座ってもいた。
寮の備品は、スタンのオフィスのものみたいに、立派で大きくはなかったからね。
ラースが、「ナショナル・ポスト」の最後の一面まで目を通し終える。
そして、それをきれいにふたつに畳んで机の上に置きながら、
「何だった?」と、ポツリと云った。
「えっ?」
「ハンセン教官の用件」
ラースはまた、ひと言だけ返してきた。
僕はつい、スタンから言われたこととや、それに対するレスの口答えについて、ひとしきり説明してしまった。
僕が喋っている間、ラースは少しも表情を変えなかったし、口を挟むこともなかった。
「レスがスタンに示した反抗心も分らなくはないけど、レスの意見に賛成もできなかったよ」と。
そんな風に話を終えた僕を、ラースは少しの間、黙って見つめていた。
そして、
「……不合理な事を云うような人間じゃないと思うけどな」と、ラースは低く呟いた。
それはひどく聞き取りにくかったから、僕は一瞬、返事につまった。
さっきも云ったけど、ラースの声はスタンと同じで、超がつくほどの低音なのだけどさ。
スタンとは違って、声がひどく「くぐもって」いたからね。
「スタンレイ・ハンセンっていう人間は、至極まっとうな事を云うだろう? 常に」
そういって、ラースは机にまとめてあった分厚い新聞の束を左手で掴んだ。
椅子から立ち上がり、それをドアの横に積んである古新聞の山へと持って行く。
「じゃあさ、ラースはどう思うの? レスとハンセン教官のやり取りについてさ」
僕はラースの背中に向かって、こう訊ねてみた。
「基本的には、スタンレイ・ハンセンの意見に同意する」
「じゃあ、レスはやっぱり『テレビドラマの見すぎ』ってこと?」
僕は冗談めかして問い返す。
でも、ラースは表情を変えず、また、呟くようにこう答えた。
「自分の身も守れない人間が、他人を守れるか?」
新聞を片付け終えたラースが、また椅子に戻って腰を下ろす。そして、
「確かにRCMPの給料は大した金額じゃないな。だが、メトロ・トロントやら他の市の警官よりは、いくぶんマシだと思うがな?」といって、軽く肩をすくめて見せた。
ごく唐突に変えられた話題と、ラースのジェスチャーの意味するところを、僕は、
「世間話は、以上これまで」ってことだなのだと解釈した。
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