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式典は滞りなく終わった。
同期達は祝いに駆けつけた家族達と抱きあったり、写真を撮影しあったりと賑やかだ。
そしてこれから、カデットひとりひとりの騎乗姿の記念撮影が行われる。
アナとリックには、「今日のこと」を知らせていなかった。
かなり離れているとはいえ、トロントから来れない距離じゃないけれど。
仕事がある二人を、わざわざこんな所まで呼びつける必要があるとも思えなかったからだ。
まるで古い映画にある「プロムで壁の花になったサエない瓶底眼鏡の女の子」みたいに、僕は会場の端に佇んで、みんなの様子をぼんやりと見やっていた。
隣に誰か近づいてきたことに気付いたのは、その人の長い影が僕の方へと伸びてきて、視界が少し暗くなったからだ。
顔を上げると、そこには制帽を被ったスタンが立っていた――
式典の間は帽子の影になって見ることができなかった、スタンの澄んだ蒼い瞳。
それが、今ははっきりと見えた。
そしてスタンが、僕に声を掛ける。
「家族は? 来ていないのか」
思わず、惚けたようにスタンに見入りそうになった。慌てて僕はこう答える。
「『家族』は……来ません、ハンセン教官」
軽く左肩をすくめ、スタンは無言で頷いた。
スタンは相槌の代わりに、そんなジェスチャーをする癖があって、時々、それを目撃できると、僕はひどく嬉しく思ったっけ。
そんなつもりはなかったのだけど、質問に対し、あまりにキッパリと答えすぎてしまったのかもしれない。
それっきり、僕とスタンとの会話は途絶えてしまった。
気の利いた返答ひとつもできず、せっかくの話の糸口をなくしてしまった。
そんな自分の失態が、悔やまれてならなかった。
だって――
もしかしたらこれが、スタンと話せる最後のチャンスだったかもしれないのに。
スタンが内ポケットから煙草を取り出して咥えた。そして、その先へと優雅に火を回す。
その瞬間に気づいたんだ。
スタンは別に、僕に声を掛けにきてくれたんじゃなくて。
ただ、セレモニー会場に唯一設置されていた灰皿の横に、僕がぼんやりと突っ立っていただけなのだと。
あまりにもバツが悪かった。
その場からすぐに立ち去ってしまうべきだと思った。
スタンは、僕のことなど、まるで灰皿の付属品かなにかみたいに知らん顔をして、いつもの甘い匂いの煙草の煙を吐き出している。
ホントにもう、二度と会えないかもしれないんだ。
スタンとは――
そう思えば、どうしてもその場を立ち去りがたかった。
風向きが変わり、スタンの煙草とオードトワレの香りが、僕の方に流れてくる。
見つめすぎてはいけない。不躾な視線だけは投げまい。
そう思えば思うほど、僕の視線はスタンの方へと引き寄せられる。
スタンの素晴らしく磨かれた靴。
つい、その艶に見とれてしまい、僕は慌てて視線をそらす。
煙草を持つ長い指、ジャケットからのぞく白いドレスシャツのカフ、そしてスタンの手首を凝視している自分に気づいては、急いでそれを自制した。
僕の視線の意味を、煙たがっているせいだとでも思い違いをしたのか、スタンは風下へ、僕の斜め後ろへと移動した。
視界から、スタンの姿が消えてしまう。
それでも、煙草の巻紙が燃える微かな音と、煙を吐き出すスタンの息遣いだけは、まだはっきりと聞き取れて。
僕はやっぱり、その場を動くことができなかった。
虫ピンで留め付けられたカブトムシみたいに。
すると、会場の真ん中で訓練生たちと談笑していたトンプソン教官が、片手を上げて、こちらへと向かってきた。
トンプソン教官の姿は、すぐに目につくんだ。
その見事な白髪に髭、白眉のせいであることはもちろんだけど、彼の揺れるような歩き方はひどく特徴的だから。
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