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  パトロールに出かければ報告書。聴取をすれば報告書。 ともかく、書類、書類、書類。 警官の外勤のルーティンには、それと同じか、それ以上のデスクワークがもれなく付いてくる。   あと、管区総本部が面倒をみない細かい仕事は全部、支部が各自で回さないといけない。 真の意味での「雑用」の類だね。 例えば、カウンターに備え付ける記入用紙の印刷とか。 コミュニティー誌への広報記事の手配とか、そういったコトだ。 ウェブ上の相談担当なんかも、そのひとつだった。 担当者名が掲載されて、「ご質問はこちらへ」なんてヤツ。 僕は、その「ご質問担当」を押し付けられた。 サイトには、顔写真とともに「担当:ジャック=バティスト・ミシェル巡査」って書かれてさ。   まったくもって、あれはヒドい仕事だった。 あれだけは、もう勘弁して欲しいね。 だってさ、経験も権限もない若い巡査が、自分の考えだけで答えられることなんて、ほとんどありはしないんだから。 どう考えたって「若手向き」の仕事じゃない。 そう。 配属されてから「仕事」は忙しかった。すごくね。 だからといって、僕にまったく「そういう欲望」が「起きなかった」ってワケじゃない。 当たり前だ。若い男なんだから。 タケシの後、ステディな関係の男性はできなかった。 タケシと別れてからは、すぐアカデミーに入ってしまったし。 そこで好きになった人は教官だったのから、どうしようもない。 でもさ、「身体の疼き」は、何らかの処理さえできれば、どうとでもやり過ごせた。 それよりも苦しかったのは「心」の方だった。 僕の頭の中は、スタンのことでいっぱいだったから。 アカデミーでは、少なくとも毎日、姿だけは見ることができたのに。 もう、それすら叶わない。 警官にもさ、同性愛者って、それなりにいるはずだ。  昔は、内部調査の警官で「おとり」みたいな人がいたらしい。そう、いわゆる「ゲイ狩り」ってヤツだ。 僕みたいな警官は「取締り」の対象だったんだ。 だからRCMP内で「警官同士」なんていうのは、とんでもないことだったのだと思う。 それにさ、僕ら騎馬警察(マウンティー)は、連邦警察官だからカナダ中を異動する。  だから、たとえどこかで誰かと付き合ってたとしても、じきに「イエローナイフとバンクーバーに離れ離れ」なんてことになりかねない。 なかなか、ひとりの相手とは続かないよね、実際問題。   そういった事情もあって、僕は警官になってからは、ごくたまに割り切った出会いをする以外、ひとりで自分を慰めることが多かった。 なんというか、その。 タケシに教わったテクニックを駆使して……ね。 そして、そういう時はいつも、スタンのことを考えた。 煙草を摘まむ指先や、オードトワレの香りを。 何度も何度も、僕は妄想の中でスタンを汚し、そしてスタンに貫かれた。 スタンがゲイかどうかとか、実際に僕を好きになってくれるかどうかとか。 そんなことは、これっぽっちも考えてもいなかった。 それどころか「きっとスタンは僕が触れることすら、ひどく嫌がるに違いない」って。そう思ってた。 そして、そう思いながらも僕は、スタンの長い指と大きな掌を無理矢理に押さえつけて、彼の中へと強引に入っていく。 すごく綺麗な、彫刻家の理想像のようなスタンの身体中、あらゆる場所に口づけをして。 冷たい蒼い瞳をした彼を屈服させる―― 「その時」、スタンはどんな声をあげるのか、どんな風に達するのか。 僕の想像は、止まることがなかった。 彼に抱かれるのか、彼を抱くのか。 妄想はグルグルと目まぐるしく移り変わり、どちらの場合でも、僕は達した。 そして、そんな風にして自慰をして果てるたびに、僕はひどい虚しさとせつなさに苦しめられた。 「スタンを忘れられないこと」が、ただつらかった。 公報(ガゼット)にデポの記事が出て、教官の欄にスタンの名前を見つけてしまうだけで、胸が締めつけられたし、通りすがりの警官の口から、「スタンレイ=ストーン・コールド」という言葉が聞こえれば、すぐさま振り返りたくなった。   そんなことを繰り返しているうち、僕の心は、ついに限界に達してしまったんだ。 「こんな人生じゃ駄目だ」って。 「もう永遠に会えない相手」を考えながら、僕は一生、マスターベーションをして終わる気なのか?! って。 スタンを忘れないといけない。 そうでないと僕は、この先、一歩も進めない―― だから、スタンについてのすべてを、僕は排除することにした。 ガゼットすらも目に入れないようにした。 彼に関係しそうなウェブサイトさえ、見るのを避けた。 デポやアカデミーに関係の深い人とは、できる限り仕事以外の会話をしないことにした。 ――もうすこし仕事が落ち着いたら、長く休みを取ってみよう。 外国に旅行するのもいいかもしれない。 僕は、まだ一度もカナダから出たことがない。 そう考えて、生まれて初めてパスポートも作った。 これでいい。どこにだって行ける。 さあ、どこに行ってみようか?  タケシのことはまだ、思い出すと胸が痛まないでもなかったけど。 でもさ、日本を訪ねてみたっていいじゃないか?  「魚」のテリヤキだって、僕はまだ食べたことがなかった。 オフには、近くの大学の講義に参加することにした。 いずれは、オタワの警察大学に出席してみたい。 科学捜査やプロファイリング、特殊捜査。 これから色々なキャリアを選ぶためには、きっと必要になることだ。 やっぱり、ちゃんと大学に行っておくべきだったかな……なんて。 今になって、そんなコトを思ったりもするけれど。 後悔してもしかたがない。とにかく、これから「何か」を始めなくては。 そんな風にして、僕の日々は確実に変わり始めていた。 だから―― だから、本当に知らなかったんだ。 スタンがアカデミーから、デポ・ディヴィジョンから異動して、メトロ・トロントを統括する「ロンドン管区総本部」に転属していたなんて。 僕は本当に、全然知らなかった。
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