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「ハンセンだ」
突然耳元で、低い男性の声がした。
僕のみぞおちに、鋭く痛みが走る。
喉が締め付けられて、息もできない。
「ジャックだろう?」
ふたたび声が聞こえた。
スタン――
スタン、スタン――
僕はやっとのことで、声を絞り出す。
「……今、仕事中でしたか?」
「オンだ。だが昼飯の帰りで、外にいる」
ああ……。
聞き覚えのある「ハンセン教官」の口調だ……。
スタンレイ=ストーン・コールドの実際的で直截的な口調。
「外に?」
ふと、僕は心配になった。「寒くないですか?」
でも、僕の質問なんかまるきり無視して、スタンはこう続けた。
「ジャック、お前は? 非番か?」
「僕はオフです。明日の夜まで……」
スタンの声で質問されたら、どういう状況だって即答せずには居られなくなる。
もう、警察学校の訓練生じゃあないっていうのに……。
「今はどこに住んでいる? ダウンタウンか?」
続けてスタンが訊いてくる。
なんだよ、そっちばかり尋問してさ。
僕のことなんか「お構いなし」なんだな――
そんな風に、突然、ひどく気持ちが塞いだ。
黙りこくっていると、スタンは重ねて詰問した。
「聴こえてるのか? ジャック」
僕は無言のまま、電話を耳に押し当て続ける。
スタンがついに、溜息をついてみせた。
さすがに腹が立ったよ。
だってさ。理不尽じゃないか?!
溜息をつきたいのは、むしろ、こっちの方だよ?
「僕がどこに住んでいようと、あなたに何か関係があるんですか?」
怒りも露わに、こう言ったつもりだった。
でも僕の声は、自分でも滑稽に思うくらい「拗ねた子供」じみていた。
「関係? 大ありだ。いいさ、どうせ、お前の住所など調べれば、すぐに分かる」
スタンが電話の向こうで噴き出した。
「……調べてどうするんです?」
「シフトは、明日の夜からなんだろう?」
スタンは、相変わらず完全に、僕を無視している。
ついに、僕はキレた。
「さっきから……あなたときたら、僕の質問には何一つ答えないで。一方的に勝手なことを言ってばかりですね!」
言ってやった。とうとう。
さすがにスタンも、一瞬息を飲んだ。
でもすぐに、子供の機嫌を取り繕うみたいな声色でこう言ったんだよ!
「『質問』? 何だ、何が訊きたい」
ホントに。
僕の話なんか……何にも聴いてないんだ? スタン。
「『結婚してたんだ?』って訊いたでしょう?」
落ち着きを取り戻そうと、僕はできるだけ声を低くする。
「おととい会った時、言わなかったか? 『これが女房のニーナ』だって。それで? そんなことが何だっていうんだ」
「そんなこと」?
奥さんがいるのに、僕にこっそりモヴァの番号を渡すのって「そんなこと」なの?
そしてスタンは、氷みたいな冷たい口調でこう続けた。
「だったら、『なぜ』お前は俺に連絡してきた? ああ、『ニーナとデートしたい』というなら、逐一、俺に許可を取る必要はない。ご自由に」
スタンレイ=ストーンコールド、お得意のひどい皮肉。
こんな調子でスタンにやられて、泣いて教室を飛び出して行った訓練生がいたな。
「で、他には何が訊きたいんだ?」
ほらね。まただ。
講義の終わりのスタンの決まり文句。
「その他、質問は?」って。
まったく――
それにしたってさ。こんなに勝手な人だったっけ? スタンって。
「次の質問は『外、寒くない?』だったでしょう?」
そう繰り返して、なんだか僕は、いっそ笑い出したいような気持ちになった。
「寒いに決まっているだろう? 今は二月で、ここはバハマじゃない。何だってそんなつまらないことばかり尋ねる? 次は?」
なんだ、ちゃんと質問にも答えられるんじゃないか?
最初からそうすれば良いのに……。
僕は続けて訊ねる。
「住所を教えたら、どうするつもり?」
「明日の日中は、家にいろ」
スタンの声音が、ピシリと変わる。
回している調教中の馬に、追い鞭を打ち据えるみたいに。
「行くから。家にいろ」
今度は少しだけ、声色が穏やかになった。
まるで言い聞かせるように。
「寒いんだ。早く、住所を言え」
そこで僕は降参した。完全に。
いいや。
最初から、僕の「負け」だった――
そうだよ。だって。
「スタンに電話を掛けた」のは「僕」なんだから。
電話を切った後、携帯に向って、僕は腹立ち紛れにこう叫ぶ。
「知らないんだからな! どうなっても……知るもんか!」
そうだよ。知らないぞ、僕は。
知らない――
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