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スタンはシンクに寄りかかって、立ったままコーヒーを飲んでいた。
「お座りになったらいかがです? サージェント・メイジャ」
僕はそう言って、キッチンに一つだけしかない椅子を引いてみせた。
スタンは座ろうとしなかった。
でも、僕はじっと椅子を引いて待っていた。
結局、スタンは僕が引いた椅子に座ってくれた。少しだけ苦笑いを浮かべながら。
キッチンのテーブルと椅子は、どこかから貰ってきた「あり合わせ」だった。
学校の備品みたいに、中途半端な大きさの古ぼけた家具。
手足の長いスタンが座っていると、ひどく窮屈そうに見えた。
ふと、アカデミーの寮で同室だった、あの「新聞男」ラース・シェーンバーグを思い出す。
そして僕は、素晴らしく手入れされたスタンの黒のドレスシューズの足先に見入る。
えっと、たしかこれは「ストレートチップ」とかっていうんだっけ。
「朝飯は済んだのか?」って、スタンに訊ねられたっていうのに、僕はボンヤリとしていて、答えそびれてしまう。
すると、スタンが軽く手を打ち合わせて、こう続けた。
「OK、最初の質問は……何だったか。『俺が勤務中かどうか』という話だったな」
え? スタン、それって……。
ひょっとして昨日、「質問には何も答えてくれない」って、僕が責めたから?
「オン・デューティーだ……さらに正確に云うと、トロント北局に向かう途中だった」
……トロント北?
「でも、今はロンドンの管区総本部にいらっしゃるのでは?」
って、僕は思わず、口を挟んでしまう。
「よく知っているな? 調べたのか?」
そりゃ……調べたさ。
土曜の夜、オフィスに戻ってすぐに。
準警部の階級章の形と一緒にさ。
「スタンが今、一体どこに所属しているのか」って、ちゃんと調べた。
スタンは。僕がさっき会話の最中にちらりと挟み込んだ質問を引っ張り出してきて、それにわざわざ答え始める。
「『今の任務が何か』と訊いたな。問題新人とその指導担当警官の調査だ。主に実務研修中の連中の」
やっぱり……トレーニングに関係の任務なんだ。
そう聞いて、僕は妙に納得した。
やっぱり、スタンには教官が似合う。
「担当者のいない業務を全部押し付けられているようなものだな……あちこちと動き回らされている」
そんな風に、スタンがなんだかちょっと愚痴めいたことを口にした。
すごく新鮮だった。なんだかふたり、「同僚」みたいじゃないか。
そうだよ、僕たち、もう「教官とカデット」じゃないんだ――
ああ、そういえば、僕。
こんな風に、スタンと「ちゃんと会話したこと」なんて初めてだ。
「ちゃんと」っていうかさ。まあ、ただの世間話かな。
でも、スタンと、こんなに「会話」をしたことなんて、一度もなかったんだ。
アカデミーにいた頃は。
なんでもいいから、ハンセン教官と「話ができたら」いいのにって、憧れてた。
そんな物思いから我に返れば、スタンが僕の目を見つめている。
困惑で、僕の表情が強ばった。
すると、スタンがフワリと視線をそらす。
「金曜には、サンダーベイくだりに、出張に行かなければならない」とかさ。
スタンが、そんなことを軽口めかせて話してくれる。
僕はすごくすごく嬉しかった。ちょっと涙が出そうな気分だった。
スタンのこと、いつも性的な意味だけで考えてたわけじゃないんだ。
どうでもいいような話をしたりして、笑い合ったりしてみたかったんだよ、こんな風に。
「ところで、昨日からろくに喰っていなくてね、腹が減っているんだ」
いきなり、スタンがそんな風に云うから、僕はちょっと慌ててしまった。
ああ、それで「パニーニ」なんか買ってきたの?
あっ……これって。
昨日の朝、僕が食べた「あのデリ」のじゃないか。
でもさ、スタン。「昨日からろくに喰ってない」って、どういうこと?
夕食、取ってないのかな、忙しかったってこと?
あのニーナって……「奥さん」、あまり家にはいないのかな?
胸の奥で、何だかイラつくような、イヤな気持ちがチクチクした。
スタンは、パニーノを二種類も買ってきていた。
「バジルチキン」と「トマトチーズ」。
「どっちが食べたいか?」と尋ねられたから、僕はバジルチキンを選んだ。
でも、スタンはトマトチーズをよこす。
別にどっちだって良かったからさ。
僕が「トマトチーズ」を食べようとしたら、スタンはトマトチーズを食べたそうにして見せるんだ。
「両方ともお食べください」って返すと、「二個は喰えない」とかっていってさ。
あの「スタンレイ=ストーン・コールド」が、まるきり駄々をこねる子供みたいだった。
これって僕が知ってるアカデミーの鬼教官じゃない。
だって、わがままで、そしてすごく可愛い。
見たことないスタン。
全然知らないスタンだ。
でも、僕の目の前にいるのは。
やっぱり、あの氷みたいな青い瞳をして、ギリシャ彫刻みたいに冷たく整った顔をした男性だ。
目が離せなくなるほど綺麗な黒髪の。
怖いほどに美しいひと。
待ってよ。
だって、こんなの変だろう?! あり得ないよ。
「僕の家」で、スタンが可愛いわがままを云いながらサンドイッチを食べてるなんてさ。
きっと「嘘」だ。
こんなことって、起きるはずない。
夢を見てるんだよ、僕は――
パニーノを食べ終わり、スタンはリビングルームへと歩いて行った。
そして、置いてある本を見たりして、僕へと色々質問を始める。
「近くの大学の講義を取ってる」って云ったらさ、「オタワの警察大学のユニットを取ればいい」って。
そうだった。
スタンはかならず、秋には警察大学へと教えにいっていたっけ……。
そして、僕は。
とうとう、それまでずっと心の下に澱のように溜まっていたコトを、口に出してしまう。
「いつ……ご結婚なさったのですか?」と。
「わたしがアカデミーにいた頃には、もう?」
「さあな、お前が在籍してたのは、いつ頃になるかな」
僕のぶしつけな質問を涼しい顔して受け流しながら、スタンは煙草のパックを取り出した。
「吸っても?」
「どうぞ。わたしの在籍は、九十七年です」
スタンは見とれるほどの優雅さで、煙草の先に火を回した。
「では、結婚はその後だ。九十八年だった。で? それが一体何だっていうんだ、お前は、昨日から」
「それが一体何だっていうんだ」だって?!
「何だ」って、なんだよ? こっちが聞きたいよ?! 意味解んない。
そんな怒鳴り出したいような気持ちを飲み込んで、僕はスタンに背を向け、キッチンの方に歩いていく。
「ジャック」
スタンの声が、僕の背中に響いた。
「アカデミーの頃、お前が俺に気があったってことは知っていた」
僕は頭に血が上って、頬が燃えるように熱くなるのを感じた。
羞恥とそして、一種の怒りで。
「そんなのは……結局、僕が勝手に思ってただけのことですから」
やっとのことで、そう声を絞り出した。
「そうなのか?」
サラリとそう云って、スタンが僕へと近づいてきた。
「だって……あなたはいつもポーカーフェイスだったし、それに結婚だってしてるじゃないですか!」
スタンへと振り返りざまに、僕は大声を出す。
もう、いい加減にしてくれよ! スタン。
こんなのって、ひどい。ひどすぎるだろ?!
「『お前の事を良く覚えていた』というのは、別に成績が良かったからだけじゃない」
「嘘だ!」
いやだ、いやだ、止めて……。
これ以上は駄目だよ。
僕を……そんなに揺さぶらないで、スタン。
「僕の事だって、たまたま遭ったから思い出しただけでしょう」
「抱いてみたいと思っていた」
スタンが僕を見つめてる。まっすぐに。
あのアイスブルーの瞳で。
僕の身体を突き抜けて行ってしまうような、冷たい刃のような目で。
「そんなの……信じられない。だって奥さんのこと、もう愛してないの?」
「『もう』じゃない、『最初から』だ。愛してなどいない」
僕の心からも身体からも、すうっと力が抜けていく。
ねえ、スタン……。
さっきから一体、なに言ってるのさ?
「もう良いか? いつまでも、こんな無駄話を続けている時間はない」
スタンが、急に教官めいた口調に戻った。
その声色に僕の気持ちが、ひどくささくれ立つ。
「ハンセン準警部、あなたは……僕がまだ『あなたのことを好きだ』とでも思ってるの?」
スタンは、面倒だといわんばかりに溜息をつく。
そして、手にしていた煙草をシンクに投げ入れたかと思うと、凄い力で僕の腕を掴んだ。
僕の顎が、スタンの長い指に捕らえられる。
一瞬のことだった。
スタンは貪るように、僕のくちびるにキスをした。
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