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23 いつの頃からだったかな。 スタンは僕のベッドルームの飾り棚のことを、「リスの巣」って呼ぶようになった。 「何の役にも立たないガラクタ」ばかり詰め込んであるからだってさ。 確かに、棚の上はひどい散らかりようだったよ。それは認める。 リビングルームに置くにもキッチンに置くにも困るようなものを、何でも押し込んであったからね。 でもね。 この「リスの巣」に詰め込まれている中で、ひとつ、とてもスタンの役に立ったものがあった。 それは、古い箱だった。 僕が覚えている限り、自分が一番昔から持っていた物。 実際、それっていうのは、壊れてがらんどうになったオルゴールみたいなモノでさ。 本当に「ただのガラクタ」なんだ。 道にでも落ちていたのか、どこかの家に引き取られていく施設の誰かに貰ったものだったのか。 今となっては、僕にもよくは分からない。 僕は煙草を吸わないんだ。だから、部屋には灰皿がなかった。 スタンが煙草を……えっと、「正確を期して言うと」シガーを取り出した時。 どうしよう? って思った。 その時に「リスの巣」の中に突っ込んであった、その古い箱が目についたんだ。 で、取りあえず灰皿代わりに、その箱をスタンに差し出した。 その後ずっと、スタンはそれを、灰皿がわりに使ってくれていた。 ひどいガラクタだったけど、ずっと持ってた甲斐があったってことだよね? 「リスの巣」と云えばさ。 なんだかんだと云いながらも、スタンは、僕の「リスの巣」が意外に気に入ったみたいだったよ。 時々、宝探しみたいに「巣」の中をひっかき回してた。 ある時スタンが、そこで僕のパスポートを見つけ出した。 何年か前。 僕が「いい加減にスタンのことを思い切ろう」って考えていた時に取ったヤツだ。 結局、どこに行くことも無く、まさに「何の役にも立たぬ」まま、ほったらかしにしてあったんだ。 スタンは、あの長い指でパスポートを捲って云った。 「……このジャック=バティスト・J・ミシェルの『J』って何だ?」 「ヨセフ、だよ、僕の洗礼名」 僕はコーヒーを入れたマグカップを、スタンの横に置いた。 そしてベッドに座って、自分のカップを見つめながら目を伏せた。 「洗礼名……」 スタンが、ちょっと驚いたみたいに口にする。 「うん、堅信も授かったよ、名前は同じだけどね」 「カソリックか……」 スタンは、左肩を軽くすくめてみせた。「なかなか、罰当たりなヤツだな、お前」 スタンに何の悪気もないのは分かっていた。 だけど、なんだかすごい不意打ちを喰わされた感じがして、僕は息が詰まって返事ができなかった。 ふと気づくと。 スタンが腰を屈め、うつむいいた僕の顔を覗き込んでいた。 「……ジャック、お前。泣いているのか?」 そしてスタンは背筋を伸ばし、今度は斜め上から僕の表情を窺った。 僕は慌てて親指で涙を拭うと、急いで顔を上げた。 だってさ、また「ぞっとする」ような皮肉めいた口調で、次にスタンに何を云われるか分からない。 でもさ、スタンは何も云わなかった。 何も云わないで、僕の頭を額の方からそっと撫で上げた。 なぜだろう。 僕は急に、ベル神父様に撫でられたときのことを思い出した。 そしたら、なんだかまた涙が出そうになった。 泣き出してしまわないように、何か云おうと頑張ってみた。 でも、やっぱり喉がの奥が詰まってしまってひと言も出てこなかったんだ。 そのかわり、僕の目からは涙の粒がこぼれ落ちた。 そしたら……。 スタンが、自分のセーターの袖を摘まんで伸ばして、僕の頬の涙の粒を擦り取りながら云うんだ。 「今のは俺が悪かった、ジャック。済まない」って。 スタンはやっぱりヒドい。 こんな風に、突然、猛烈に優しくしたりするなんて。 不意打ちにもほどがあるだろ? こんなのはさ。 だから。 それからは、もう涙が止まらなくなった。 参ってしまったよ、ホント。 スタンは、僕の背に腕を回して、ゆっくりとさすってくれた。 「スタンに謝られた」ことも、こんな風に慰めてもらったことも。 そういえば初めてのコトだよなって思いながら、僕は、ただずっと泣いていた。 スタンのセーターからは、いつものチョコレートみたいな甘いシガーの香りがした。 うん。すごくやわらかくて薄くて、すべすべした肌触りのセーターだったよ、スタンが着ていたのは。 きっと、高価な物なんだろうと思った。 食べ物や嗜好品の好みもとかさ。スタンって、結構そういう感じなんだ。 趣味が良い? っていうのかな。 何事にも無頓着な僕なんかが、そんなこと云うのも、変なんだけどさ。 「シフトに遅れるなよ」 そう言って、結局その日、スタンは僕と一回もセックスしないで帰って行った。キスもしなかった。そんなこと、それまでになかった。 僕は顔を洗って、鼻をかんだ。 鏡を見る。 目が赤くて腫れぼったい。 出勤までに、腫れが引かないと困るな……なんて。 そんなことを思いながら、冷蔵庫からミルクを取り出しグラスに注いだ。 ひと口飲んで、僕はふと思いついたんだ。 もしかして。 僕が泣き出したことって。 すごく「スタンを傷つけてしまった」んじゃないかってさ。 なんて説明すれば良いんだろう? 上手く云えない。 確かにスタンって、皮肉屋で無神経で、その上、冷たくて我儘だ。 そういうスタンに、僕の気持ちがへこまされたコトなんて、もちろんいっぱいあったよ。 でも、「僕が泣き出した」時。 多分、スタンはすごく傷ついたんじゃないかと思う。 「僕を傷つけてしまったってことに対して」、すごく傷ついていたんじゃないかと思う。 このことがあってから、僕は少しずつ気づき始めたんだ。 スタンの心の奥には、他人に見せることを絶対に拒んでいる「何か」がある。
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