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授業をしていた大学の校舎からの転落死だと。自殺か他殺かは解らないと。 最初は、そう報じられた。 現職のRCMP準警部の配偶者の死だってことで、トロント警察も、相当丁寧に調べたようだったけれど、最終的には「自殺」ってことでカタが付いた。 二月の夜の、きつい薔薇の香りを覚えてる。 知的な綺麗な人だった。認めたくないけど、すごく美人だったんだよ。 劇場街を歩いていたふたりは、とても絵になってた。 お似合いのカップルに見えた。本当だ。 だから。 だから、悔しかったんだ。 「彼女になりたい」と、何度もそう思ったほどに。 自分が同性しか愛せないからって「女性を羨ましい」と思ったことなんかない。一度もなかった。 同性しか愛せない自分を受け入れようとしてきた。だって、それが「自分」なんだから。 でも、あの人だけは違う。 あの人は、スタンの「妻」だったんだから―― 僕はあの人が――ニーナが、羨ましかった。 でも、僕はあの人にはなれない。 だったら、いっそ居なくなってくれればいいのにと。 スタンの横から消えてしまってくれって。 僕はそう思った。 何度も何度もそう思った。本当は。 でもまさか。 本当に彼女が居なくなるなんて、思ってなかった。 ニーナの死を聞いた時、僕は悦んだのだろうか?  今となっては、それもまったく思い出せない。 ただ、彼女の死は、スタンからの最後の電話の直前のことだったと、後で知って。 ニーナが死んだと聞いた後で、スタンは僕に電話をくれたの?  それとも? 解らない。それは考えたって答えが出ないこと。 そして、僕のパートナーのロイが。 スタンが「メイプルシロップ漬けのパンケーキを常食している男」って、よく揶揄ってたサージ・ガードナーが、新人の指導担当警官になるに当たって、僕にも辞令が下りた。 それは、"C"管区への転属(ポスティング)だった。 ケベックへ戻るのは、一体、何年振りだろう? あの施設で、べル神父様はご健在だろうか。 「ジャック、お前も栄転だな」って、ロイは笑って慶んでくれた。 確かに、そうと云えるのかも知れない。 僕もじきに、巡査部長(サージェント)になるんだろう。 でも、そんなロイの暖かい言葉も、実のところ、僕は素直には受け止められなかったんだ。 だってさ。 だって、ロイはこれから、何度もスタンに逢うことができるんだ。 受け持ちの巡査見習(コンスタブル)に問題がないかどうか、スタンに報告する立場になるのだから。 それでもし、本当に問題が生じれば、スタンが、そのコンスタブルと指導担当教官であるロイを面談する。 でも僕は―― 僕が今度、スタンの近くで働けるのは、一体何年先になるんだろう? 騎馬警官(マウンティ)は、カナダ中を渡り歩かなくてはならない。 スタンだって、ずっとトロント周辺にいるとは限らない。 ねえ。どう思う? スタンって男は、周りの人を不幸にした人間だって、そう思うかい?  ……ニーナは知ってただろうか。 スタンが僕と寝てたこと。 スタンが本当は男の人しか愛せなかったってこと。 解らない。 だって、彼女はもうどこにも居ないんだ。訊ねて確かめることはできない。 でも、そのことに「気づいてなかった」と言い切ることもできない。 ああ、そうだよ。 彼女はおそらく、そんなに馬鹿な人ではない。 三年も共に過ごした夫が、何を考えてるか、まるで解らないなんて。 スタンの様子に何も感じないなんて。 そんなこと、あるはずがないよ。 もし知っていたら。スタンの「裏切り」に気づいていたのなら。 きっと、ひどく傷ついたはず。 もしそのせいで、ニーナが死を選んだのだとしたら? 確かなことなんか解らない。 でも「もしそうだ」としたら。 僕にも責任がある。償いきれないほどに。 でもね、それでも。 スタンは、僕のことを「不幸」にはしなかった。本当だ。 アカデミーを出てからずっと、スタンが恋しくて、切なかった。辛かった。 でもスタンと、また出会えて。 心はひどく乱れたりしたけど、ハラハラしたりもしたけど……だけど。 これまでの人生で一番、毎日が楽しかったんだ。 スタンのことを知っていけばいくほどに。それはそうだった。 好きなワインや好きなキスや。いろんなことを。 スタンが僕に幸せをくれたように、僕もスタンに幸せをあげたかったんだ。 スタンを苦しめるものから、少しでも彼を守ってあげられたら。 そうだったら、どんなにいいだろうと。 今でもそう思っているんだよ。 僕は―― スタンが僕から離れていった理由は、やっぱり解らない。 僕のせいなのかもしれないし、別な理由があるのかも知れない。 スタンは何も云わないまま僕を切り捨てたから、最後までそれは解らないままだ。 でも、僕の気持ちはずっと変わらない。 スタンのせいで、僕が苦しむなんてことはない。 だってスタンがいれば、僕はそれだけで幸せなんだ。 スタンが、そのことを解ってくれたらいいのにって、それだけを願ってる。 ――今でも。 時々、モヴァのバイブの幻覚を感じて、思わずポケットから取り出す。 僕のシフトを訊ねるスタンからのメッセージが、着信しているような気がして。 そしていつも、スタンが鍵を開けて、部屋に入ってくるのを待っている。 階段の足音に、廊下でキーの鳴る音に。 僕は耳を奪われる。 でもこのフラットを、僕は今日、出て行く。 ケベックへと―― ワインのコルクは、ずいぶんと上手に開けられるようになったよ。 アルゴンキンへ行くために取った休暇の間、スタンが買い置いていた瓶を全部開けて、ひとりで飲んだから。 そしてまた、同じのを買いに行って、それも開けて飲んだ。 多分、僕が「フライフィッシングに行く」ことは、もう絶対にないだろう。 だってスタンと行けないのなら、行ったってしかたがない。 今度は―― 一体いつまで、僕はスタンを待ち続けられるのだろう。 四年? それとももっと? ううん。 きっと、いつまでも待ち続けるんだろう。 あの冷たい蒼い瞳の持ち主を。 僕は、ずっと。 (了) Stan side 漆黒は濃紺の従僕 blue deep blues
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