「久しぶりだね」

10/12
10732人が本棚に入れています
本棚に追加
/15ページ
『さやかを嫁に出すまでがんばらねば』  祖父は口癖のようにいつもそう言っていた。  だから外泊相手と結婚するのならきっと許してくれるはずだ。  謝って正直に本当のこと言おうと口を開きかけたところで、祖父が言った。 『太一(たいち)のやつが出て行った』  太一は一緒に暮らしている叔父で、おかもとの後継ぎだ。  その叔父がいなくなった。  店の売り上げも消えていたという。 『放っておけ。どうせすぐに帰ってくるわ』  祖父は自分との言い合いが発端だろうと言った。  似た者親子のせいか、ささいな口喧嘩は日常茶飯事だったので、私も頭が冷えたら叔父も帰ってくると思っていた――が、一向に戻ってこない。  祖父はなんだかんだ言いながらも、叔父のことを心の中では頼りにしていたのだ。途端に気力を失い寝込みがちになった。  残された祖父と私、そしてローン五百万円。  仕出し屋から弁当屋への転身、そしてそれに伴う大規模な改装を提案したのも、叔父だった。  このまま櫂人さんと結婚してもいいの?    昔気質でがんこなところもあるけれど、愛情深くかわいがってくれた祖父のことが、私も大好きだった。祖父のおかげで大学進学もイギリスへの短期留学もできた。  それなのに、こんな状態の祖父をひとり残して私まで出て行くなんてできない。    櫂人さんに相談すれば、なにかしら助け船をくれるかもしれない。彼はとても優しく頼りがいのある人だ。  だけど海外勤務について行くことができないのに、彼の優しさにすがろうとするなんて、誰が許しても自分が許せなかった。彼の(かせ)になるなんて耐えられない。 『結婚のお話は、なかったことにしてください』 『さやか……どうして』 『ほかに好きな人ができたんです』  たとえ嘘でも彼以外の人を好きだと言うのは、身を切られるようにつらかった。  けれど、けっして涙はこぼさなかった。  彼はしばらく呆然としていた後、絞り出すような声で『そうか、わかった』とだけ言った。  彼を怒らせることも覚悟していたから、すんなり受け入れてもらえたことを喜ぶべきなのに、引き留めてほしかったと思ってしまう身勝手な自分が悲しかった。  私達の婚約は一瞬でうたかたとなって消えた。
/15ページ

最初のコメントを投稿しよう!