夏の雨

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 片瀬江ノ島駅の楼門をくぐり抜けると、どんよりとした曇り空が垂れ込めていた。折角の湘南というのに最悪の天候だが、むしろ自分の心情を現しているようで、そんなに気にならなかった。それに、ひゅるりと吹いたなまあたたかい風に目を向ければ、弁天橋越しには相模湾に浮かぶ江ノ島が見えた。長谷川さんの好きな景色がそこにはあった。  江ノ島に行ったカップルは別れる。  長谷川さんは去夏、そんな噂を知りながら恋人とデートし、そして今年の初夏頃に別れた。価値観の不一致だと思っていたが、噂が関係しているかはあまり気にしなかった。因果関係の有無程度で江ノ島が、湘南が嫌いになるとは思わなかった。  休日の今日、午後なんとなく湘南の海を目指してみたくなり、都内の自宅から小田急に乗り込んでこの竜宮城の入り口に降り立ったのは、夕方も近い頃だった。 (このまま江ノ島に渡って散策してもいいけれど――)  長谷川さんは周囲のカップルや親子連れを目にして、島とは反対方向に歩き出した。  丁度、空からはしらしらと雨が注ぎ始めた。  長谷川さんは鎌倉行きの江ノ電に乗った。車内はそれなりに混雑していて、海側のドア付近に立って車窓を眺めた。降り出した雨は世界を濡らし、窓ガラスにもぱとぱととついては流れ落ちていった。薄墨がかった景色をガラス越しに眺めていると、不意に水色地の水玉模様のワンピースを着た自身の姿が車窓にうっすらと映っていることに気がついた。それはうるんだ世界の中にしゅわりとはじける微炭酸のようで、彼女はサイダーの瓶の中にいるようだと思った。  腰越を過ぎた江ノ電は134号線と並走する。長谷川さんの初恋のひとと訪れたのが腰越だった。小さな漁港でアジフライを買って、海岸近くの神社でとんびに気をつけながら隠れるようにして食べた。その日もぐずついた天気で、時折小雨が降っていた。134号線を一緒に歩いたが、手をつなぐ勇気がなくて、気がついたら駅に着いていた。鎌倉高校前駅の踏切で写真を撮るなどしてみたかったが、駅のあまりにも海海しさに目が眩んでできなかった。年の離れたそのひととは、それきりになってしまった。  七里ヶ浜を過ぎれば稲村ヶ崎である。大学生時代、長谷川さんはこの駅で降りたことがある。ゼミの教授がこの地で活躍した歴史人物の足跡を辿ろうと言ったためであった。初夏だったと思うが、浜辺を眺められる高台にヒルザキツキミソウが可憐な花を灯していたのを覚えている。思えば、この時に初めて湘南を満喫したようだった。その後何度も訪れることになる134号線沿線、相模湾のたっぷりとした包容力、歴史が蓄積された街、美味しい甘味処、長谷川さんの好きが形作られていった時間だった。  江ノ電は谷間へ進路を変え、極楽寺に着いた。雨は止んでいるようで、時折差す日差しが夏の存在をやわらかく照らし出している。 極楽寺を発車するとすぐトンネルに入った。不意に、まだ雨跡の残る窓ガラスに長谷川さん自身の顔が映る。こんな顔をしながら海を眺めていたのか、と少し驚いた。もうこの先車窓に海の見える区間はないことを思うと、やはり少し憂鬱になったその時。トンネルの暗闇を抜け出た車窓に、青や紫の紫陽花が露をいっぱいにたたえてみずみずしく光っていた。刹那によぎる鳥居。御霊神社である。彼女長谷川さんは目を見開いて、そのきらめきを瞳に映した。 「間もなく、長谷~」  車掌の声が響く。長谷川さんは一瞬自分のことを呼ばれた気がして、少し笑んだ。長谷に着いたら、もう少しで終点である。  「鎌倉~、鎌倉~」  とうとう終点の鎌倉に着いてしまった。既に夕方で、帰る観光客と帰る地元民で、江ノ電の鎌倉駅は混雑していた。長谷川さんはゆっくりとホームに降りてJR鎌倉駅方面へ歩いた。乗ってきた電車の行き先表示は「藤沢」に変わっており、左右に紫陽花の画像が光っていた。テールライトも灯っており、また間もなくの次の出発を待っているようだった。 長谷川さんはその藤沢行きの江ノ電を、テールライトが見えなくなるまで見送った。さあ帰ろうかと振り返ると、車止めの上にかえるの置物がのっていることに気がついた。 (またかえるよ)  長谷川さんは頷くと、改札を抜けてJR線のホームへ上がっていった。
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