川の向こう

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 「とうとうソノ気になったのか」  船着き場の婆は、相変わらず石の上に座っていた。大儀そうに背中を曲げている。  穏やかに流れる川は、薄い靄の色をそのまま映しとり、陰鬱な光を放っていた。ちょうど、靄に船が隠れるところである。船には何人も乗っていたようだ。  「間が悪かったねえ」    婆は言いながら、自分の側の石を指さした。そこに座れと言うことだ。  「すぐに戻って来るよ。しかし、あれからどんだけ迷っていたんだい」  黄色い目玉で婆は見上げる。その顔も、ばさばさに乱れた白髪も、前に見たまま変わらない。  こういう者たちに「年月」は、ないらしい。  五年。  わたしは告げる。  五年間、迷っていた。五年前、ここで一度、船に乗せられている。そして、「あの方」の顔を見た。    婆は「まあ、よく来たよ」と、褒めるような言い方をした。  わたしのように、一度はここに来ても、寸前になってまた戻ろうとする者がいるらしい。  それほど珍しくはないのだと、あの時、婆は言っていた。  そうれ、来たよ、と、婆が言うので、船が戻ったかと思ったら、そうではなかった。  凄い勢いで川の水が飛び跳ねている。靄がかった向こうから、抜き手を切って、凄まじい表情でこちらに向かい泳いでくる奴がいるのだった。    「だァれエがアっ」  泳ぎながら、怨念に満ちた喚き声を放っている。  男とも女とも、老いているのか、若いのかすら分からない。分かるのは、ただただ怒り狂っていることだけだ。    「納得できるかアアアアアア」    そいつは叫びながら川を渡り切り、ざばっと岸に上がった。そして、婆を睨みつけると「馬鹿にすんな」と一言、吐いた。    「別に馬鹿にはしてないさ」  婆は、軽く答える。  好きなように行きな、河原を出た後は、あんたの自由だよ。  その者は婆には答えなかった。大股で河原を歩いて行った。  河原の上は、昼間の青空らしい。そこに、川から戻ってきた奴は足を踏み入れてゆく。そうして、もうこっちには戻ってこなかった。  あっちに行っても、やり直すことなどできないと言うのに。  だけどそのことは、さっきの奴自身も、よく分かっているのに違いない。現に、わたしもそうだった。    「死んだ身で現実に戻ったって、なにもできやしない。だけど、納得できない。彷徨って、ここにいても無駄だ、次に行こうとふんぎりがつくまで、仕方がない」  婆はぼそりと言う。  黄色い目でわたしを見て「そうだろう」と言った。わたしは頷いた。
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