09)藤が誘う愛

1/1
前へ
/71ページ
次へ

09)藤が誘う愛

4月も半ばを過ぎ、藤が咲く季節。 潤の自宅の庭の藤棚も、紫の花をつけていた。 慎ましくも鮮やかな、紫の藤ーー 日頃、潤が手塩にかけて育て、管理している。 藤の満開に近い様を見ながら、目を細めて喜ぶ潤の姿に、碧も嬉しい気持ちになり、春の喜びを共にしていた。 藤には白い蝶が2匹、寄り添うように花の蜜を求め群がっていた。 紋白蝶よりも白く、やや碧みががった白。 碧は白い蝶が紫の蜜を求める姿に、一瞬の艶を感じて苦しくなった。 潤は蝶と碧の姿を交互に眺め、愛おしい気持ちになるーー 潤は部屋の一角のある場所に、碧を誘う。 そこは、潤の自宅にある、ある場所に繋がる白い無垢材の扉だった。 「この家に、こんな扉があったのか…知らなかった」 碧は何回も潤の家を行き来しているが、この扉の存在を初めて知った。 潤はそっと、扉を開ける。 無限に広がる、紫の藤棚。 庭の藤棚も綺麗だが、ここは幻想的な、包み込まれるような雰囲気だった。 碧は降り頻る雨のように咲く藤を見て、綺麗さと儚さと壮大さに言葉を失う。 そこは、碧が潤の楽屋で一瞬見た藤の群れと一緒だった。 「えっ!?あの時の藤棚…」 「どうなってるの…一体…」 (碧、おいで…) 潤は碧の手を取り、藤の彩に誘う。 この秘密の藤棚も、潤が丁寧に管理し続ける。 時期を問わず咲き続け、無限に広がる不思議な空間だ。 潤は碧に「藤には思い入れがあり、心を繋ぎ想いを紡ぐもの」とだけ伝えた。 潤以外は立ち入らない場所でもあり、そこに他の人が足を踏み入れるのは、碧が初めてだったのだが… 不思議なことに、二人は普通の服を着ていたのに、この藤棚に入ると天衣無縫の純白の布に身を纏う。 それは潤の心のように優しくて、碧のように無垢な白だったーー 肌触りが良く、まるで赤ん坊が母親の腕の中で安らぐ感覚に近いものがあった。 碧にはこの場所が初めてのようで、初めてではない事のような気がしていた。 潤と出逢ったときに初めて見たけど、 ずっと以前に、何処かで見たような… やがて碧の疑念も消え、雨が散るように咲き誇る紫の藤に、2人は見惚れてしまう。 藤の香りと、紫の雨が二人を包む。 全てを奪われそうな、儚くも艶の雨のように。 もはや二人の感情は、抑えきれなくなっていたーー 「潤さん、好きです…」 碧の口から途切れがちだが、潤への自然に想いが溢れたーー 碧の想いに、潤も声の代わりに瞳で伝え頷いた。 そして、声にならずとも懸命に口を動かす。 (碧…俺も、好き…) 潤の答えに、碧は心からの笑顔で返す。 純粋無垢であどけなさの残る碧の笑顔が、潤には愛おしく感じられた。 二人は自然に抱き合い、お互いの想いと命を確かめ合う。 潤は碧の頭をそっと撫でた。 「潤さん、もう一度言うね…」 碧は一旦間を置き、潤の綺麗な瞳を見つめて伝える。 「潤さんのこと、好き…」 二人は自然に唇を重ねる。 最初は唇を重ね合わせては離れていたが、しだいに時間が長くなり、深くなっていくーー 碧の唇が少しずつ開き、潤を受け入れる。 唇が離れるたび、二人は再び求め合い、今度は潤の開かれた唇に碧が入り、二人は絡み合う。 (愛してる…) 二人は心で伝えながら口付け合う。 紫の藤が、愛し合う二人を護るように包むーー 息苦しさとは違う、愛の心地よい苦しさ。 このまま、あなたに溺れてもいい… 長いキスが続き、碧は潤の布に手をかけようとしたところを、その手を潤に止められた。 碧はハッとして手の動きを止めたが、潤の細い指先が、冷たくなっているように感じた。 このとき碧は、潤の雰囲気がいつもと違うことに気付く。 いつもは冷静沈着な潤が、何故か動揺して、その表情には悲しみや怯えも見受けられた。 「潤さん、ごめん…あの…俺…いきなり…迷惑だったよね…」 碧はなんと言えばいいかわからず、自分が悪いことしたと思い、言葉の限りを尽くして謝るが、潤は優しく「違うよ」というふうに首を振り、寂しそうに微笑む。 本当は、潤も碧と溶け合い、溺れたかったのに… 潤は碧に背を向け、自分の胸元を見つめて苦しくなった。 そして、振り返って碧に目配せする。 (碧、ここを出よう…) 潤に促され、碧は従うしかなかった。 この藤棚に入るときは寄り添って入っていたのに、出る時は距離を取った。 二人は無言で、藤棚を出た。 碧には、潤の凛とした背中が非常に遠く感じていた。同時に後ろ姿から今迄にない「嫋やかさ」が漂っているように見えた。
/71ページ

最初のコメントを投稿しよう!

19人が本棚に入れています
本棚に追加