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34)碧の希望
碧が年明けの寒い時期に、28歳でメジャーデビューを果たし早や2年。
30代を迎える年になっていた。
碧と潤はそれぞれに多忙を極める歌手活動の中、お互いの時間、二人で共に過ごす時間を大切にしていた。
離れて暮らす時間であっても
共に過ごす時間であっても
お互いを想い、尊重し合っていた。
それは何者にも壊す事のできない、靭い「絆」にもなっていたーー
碧は、4ヶ月にも及ぶ全国ライブツアーが終了した。
30歳になる記念に、敢行したホールツアー。
どこも満席で、急遽立ち見席を用意する会場もあった。
全国に、碧の唯一無二の、清らかな声が響く。
ライブは話し下手な為にあまり話はしないが、バンドメンバーとのやりとりに、観客も和む。
観客やスタッフの喜ぶ顔を見ることもまた、碧の歌う喜びへと繋がっていく。
デビュー3作目のシングルは、初の碧と潤の共作となった。二人で作詞作曲をしたのだ。潤もコーラスで参加している。
遥か彼方に
夢で出逢ったのは
未来を共にする約束と
あなたの瞳が
僕に伝えてくれた
僕の目の前で
奏でる音は
あなたの生きる証
生まれたときに包まれながら
聴いてきた生命の音
一緒に刻んで歩いていきたいーー
「誕生の奏(かなで)」と曲名をつけた。
碧と潤は、遠い昔に生まれたばかりの生命を思い出しながら、言葉を綴った。
遠い昔に出逢った、
悲しみに暮れた青年と
生まれたての赤ん坊の未来が
約束されていたかのように…
碧は潤と愛し合う中で、ある事を意識し始めていた。
それは、自らの身体に「命を宿す」ことーー
碧は、自身が女性になった事の意味を、漠然と考えていた。
もしかしたら、潤との間に新しい命が芽生えるかもしれないーー
潤との命はほしい。
ただ、自分が育てる事ができるのか…
いつもは何でも潤に話す碧だが、この話は中々できずにいた。
生活以上に、不器用な自分が命を育てることができるのか…
これ以上、潤さんに負担をかけやしないかーー
碧は時折耳にする子供への虐待事件に胸を痛め、そして何よりも自分が両親から受けた仕打ちと同じ事をしてしまうのでは、と不安にも駆られた。
碧は命への希望と、守ることへの不安に揺れ続けていた。
ツアーが終わった後、潤は碧が元気がない事に気づいた。
「碧、何か悩んでいる事があるの?」
ツアーの疲れとは別に、碧が何かに悩んでいる事を察し、優しく問いただした。
潤のいつもの優しい眼差しは、碧の緊張を一気にほぐした。
「潤さん、本当はね…潤さんとの子供が生まれたら嬉しいって思ってるんだ。だけど…」
碧は、潤との新しい命が誕生の未来への期待と、育てる不安の気持ちを、正直に話した。
「生命が芽生えたら、一緒に育てよう」
潤は即答したが、勢いで答えたわけではない。
碧と一緒になってから、新しい生命へ繋ぐ事も考えてきたからだ。
潤は年齢的にも、生命を宿す事はできない。
もしかしたら碧の中に、芽生えゆく可能性もある。
そのときは、生命を宿し産む力を二人で労りあっていく。
「大切なことだから、言いにくかっただろうね。
辛い思いをさせてごめんね…」
碧に負担をかけさせた罪悪感が、潤の胸中に影を落とす。
命の重みを、碧一人に抱えさせたのかもしれない…
「ただ、俺達だけの問題ではないから、この意思は剛毅と社長にも伝えた方がいい」
潤は、妊娠や出産に纏わる体の変化や、仕事の影響について事前に話した方が良い、と時間をかけて説明する。
時折、翡翠と過ごした日々を思い出し、胸が痛くなった。
碧は潤の様子を労りながらも、潤の説明を聞く。
こればかりは、自分達だけの気持ちを走らせてはいけない。まずは周囲、お世話になっている人達にはきちんと話しておくことーー
碧は潤に諭され、納得した。
「この事も、新しい命を守る事に繋がるんだね」
碧の純粋な瞳も、姿も守りたい…
潤はその身を優しく抱きしめた。
碧と潤、剛毅、事務所の社長を交え、碧の身の上を話し合う。
碧自身が今後妊娠し、出産子育ての可能性があること、生命の誕生への期待と不安な気持ちを正直に話した。
碧は1年前に、自分の身体が女性に変化する事は、剛毅を始め事務所側に伝えていた。
初めは全員驚いたが、正直に話してくれた事、碧の誠実な姿勢に理解を示してくれた。
碧は人気アーティストに成長した為、もし活動休止状態になれば、事務所の損失にも関わる。
しかし事務所側は、碧の身体を優先する事にした。
これは日頃、碧が精力的に活動し、不器用ながらも周囲への敬意と感謝の気持ちが表れている故の対応となる。
碧の気持ちと意思に対し、社長の反応は
「よく話してくれたね。ありがとう」
少し間を置いて、穏やかに伝え続ける。
社長の瞳に嘘はなかった。
「ただ、碧も潤も、これから話すことを約束してほしい」
妊娠が判明したら、直ぐに事務所に伝える事。
ライブ活動は自粛し、スタジオミュージシャンに徹する事。
産前産後以降は、可能な限り曲作りやリリースを行う事だが、何よりも子育てを優先し、二人で行う事。
一人で抱えず、事務所側も相談やサポートに協力する事。
社長と剛毅は以上の条件を出し、碧と潤は承諾した。
このサポートの裏には、不器用な碧への配慮も含まれていた。
育児と仕事の両立に混乱する可能性も考えられ、サポート体制は整える必要があったからだ。
「もし碧と潤に家族ができたら、俺たちも嬉しいよ。俺たちにも家族が増えたみたいだ」
社長の心からの気持ちに、碧と潤の心は喜びに満ちていた。
潤は自分が声を出せなくなった頃、事務所が自分の事を長い間待ってくれていた事、歌えるようになったときには喜んでくれた事を思い出し、胸が熱くなった。
碧も潤も、事務所の温かさと配慮に感謝していた。
社長との話し合いを終え、剛毅はホッとしたのか
「よしっ、碧と潤に子供が生まれたら、俺が空手教えたるわ!」
「剛毅さん、気が早いよー」
「剛毅はいつもせっかちなんだから」
碧と潤は剛毅の期待に呆れながら笑ったが、生命への歓待に心から喜んでいた。
「剛毅も、ありがとう」
潤は剛毅の配慮と気持ちに、心から感謝していた。
「俺も昔、潤にいっぱい遊んでもらって、助けてもらったからな。お互い様よ」
剛毅は厳つい表情を崩し、心から笑っていた。
ツアー終了後には新曲のレコーディングも終え、碧は数日の休暇に入った。
デビュー以来初めての、纏まった休暇だ。
この休暇に入る前日の夜、碧の身体は女性に変化するが、同時にかつてない心身の状態にも襲われるーー
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