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04)藤の雨
碧はデビュー当日に、潤のライブの前座で歌う事になった。
碧の楽曲に惚れ込んだ潤から「是非ライブで歌ってほしい」とオファーがあったのだ。
親友の剛毅からの頼みではなく、潤自身の意思だったのだ。
あの雨音潤から声がかかり、しかもその人の前で歌えるんだ…
碧は大きな会場で歌う事よりも、潤の事が気になって仕方なかった。
大勢の観客や、憧れの潤の前で歌う事に高揚感と緊張感が入り混じる碧。碧にとっては忘れられない28回目の誕生日となりそうだ。
「歌手・空羽碧をアピールできる最高のチャンスだぞ」
剛毅は碧の肩を叩く。
碧にとっては大きなプレッシャーでもあったが、大きく頷いた。
希望に胸が躍るようにーー
「ライブ前に、潤には挨拶しとけよ」
ライブ前日、剛毅は碧はライブの前に潤の楽屋を訪れ挨拶を促す。
事前に挨拶に行くタイミングも確認する。
今のところは、碧と潤、それぞれのリハと打ち合わせが重ならないよう、剛毅が潤サイドに連絡する。16時になった。
碧と潤は同じ事務所とはいえ顔を合わせる事が全くなく、今回が初対面となる。
打合せの最後に、剛毅は碧に、潤とコミュニケーションを取る上で最も大切な事を伝える。
「それから…
潤は歌うとき以外は、声を発せないんだ」
潤について初めて知る事実に、碧は驚いた。
潤が話せないことは、ファンのみならず、業界でも有名だったが、碧は知らなかった。
「わかった。でも、なんで…?」
碧の疑問に、剛毅は「さぁ…」と首を傾げるが、その表情は固いように見えた。
それでも、潤とのコミニュケーションで大切な事を伝え続ける。
「ただ、言葉は理解できる。
筆談や携帯のやり取りが中心だ」
潤は「話せない」のでライブはMCが一切なく、ライブの合間や最後に頭を下げる事で謝意を伝えている。
TV出演はなく、雑誌やメディアの取材では筆談で対応していた。
失語症やその他の障害があるわけではないのだが、一部では「過去のトラウマ」とも言われている。
ライブ当日。
碧は会場入りし、打ち合わせとリハーサルを済ませると、潤に挨拶に行く時間が近づいてきた。
16時の時間も確認して潤の楽屋に着く。
入口に「雨音 潤様」と書かれてある。
(よしっ…時間も場所もオッケー)
碧は2回ノックして、
「雨音さん、空羽碧です。挨拶に伺いました」
やや緊張しながらも少し大声で挨拶する…しかし中からは返事がない。
(いないのかな?)
碧はドアを不躾に開け、驚いた。
そこには潤の姿はなく、一面の紫の藤棚が広がっていた。
慎ましい紫色の藤は、儚い雨のように、散るように咲いていた。
「えっ!?俺、部屋間違えた!?」
碧は驚き、部屋を間違えたと思い、慌ててドアを閉めた。でも入り口のプレートには「雨音 潤様」と書かれている。
そして恐る恐る再び扉を開くと、藤棚は消え、シンプルな雰囲気の楽屋の中に、今度はスーツ姿の潤が佇んでいた。
黒に近い紫のスーツに身を包む潤。
碧とは、親子ほど歳が離れている。
碧と同じ、比較的長身で細身の体格だが、どことなく逞しさも垣間見える。
その表情は慈愛に満ち、どこか儚さも漂う雰囲気だった。
(この人が…雨音潤…)
その細くも頼りありげな肩には、少し薄い紫の花弁が1枚。
「さっきのは…夢じゃなかったのか…」
碧は、潤の肩についていた紫色の藤の花弁を見つめながら動揺していた。
儚げな藤棚と無機質な楽屋の雰囲気と比べ、何度も瞬きをする。
潤はただ、無言だが落ち着いた佇まいで碧を迎え入れた。
その瞳は物静かに、碧を心から歓迎している雰囲気も現れていた。
潤の瞳を見た瞬間、碧はその綺麗さに驚く。
長年芸能界で活躍しているにも関わらず、穢れなき純粋な瞳に、碧は引き込まれそうになる。
穏やかな雰囲気なのに、どこか力靭い瞳。
碧は一瞬で潤の瞳から逃げられなくなっていた。
一方、潤は碧を見た瞬間驚いて動揺していた。碧には涙を浮かべているように見えた瞬間、潤に突然抱きつかれた。
「あの…雨音さん!?」
碧は驚くが、潤の方が小刻みに震えているような気がした。
そして何故か、懐かしい感触と香りを感じた。
遠い昔に感じた、温かな、悲しげな香りーー
潤は何か言いたげに口を開く。
(ア…オ…イ…)
碧は潤の口の動きを見て驚く。
潤は声を出そうと必死にもがいている。
しかも「アオイ」と発している。
(俺の名前を呼ぼうとしてるの?)
潤は何度も声なき声を出す。
その表情は、苦悶に満ちていた。
潤は歌うとき以外は声を発せない事を、碧は改めて実感した。
「雨音さん、もういいです!」
潤の苦しそうな表情に耐えられず、碧は必死に止め、潤の肩を両手で離した。
潤の悲しげな表情に、碧は戸惑った。
「また…人を傷つけてしまったの…?」
「あ…あの…」
話す事ができない潤に、どう気持ちを伝えようか…
剛毅に言われた事を咄嗟に思い出した。
「紙に何か書いて伝える」
碧は念の為持参したボールペンとメモ用紙を出し、伝えたい事を必死に書く。
『ごめんなさい…雨音さんが口を動かすのが苦しそうに見えて』
『今日は、前座出演に声をかけてくださり、ありがとうございます。
よろしくおねがいします』
不器用ながらも、潤に気持ちや誠意が伝わる。
潤は少し微笑んだ。
その笑顔には、聖母マリアのような深い愛情が込められていた。
二人は頭を下げ合い、一旦別れて其々のステージの準備に入った。
(雨音さんに伝えられたかな…伝わったかな…)
(今日のステージ、うまくいきますように)
碧は期待と不安を抱きながら、ステージ衣装に着替えた。
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