07)優しい時

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07)優しい時

碧と潤の、顔は見えず文字のみの、それでいて絆を確かめ合うやりとりは暫く続く。 スマホは、もはや二人をつなぐ糸と化しつないた。 何度か続くうちに、二人が送ったメッセージが同時に届き合う。 『逢いたい』 たった4文字が、二人のすべてだったーー 気がつけば、2人が出逢った寒い時期から、桜の開花宣言が出始めていた。 『今から迎えに行くよ』 潤は夜中に碧を誘う。 碧に断る理由はなかった。 碧はマンション入口で潤の迎えを待つ。 潤は碧の元に、クラシカルな雰囲気のBMW2000を走らせる。 黒に近い青系の車で、昔からずっと大切に乗ってきた。 碧の元まで1時間程と、決して近くはない距離を走るが、辿り着くまで更に長く感じる。 碧も車の免許は持っているが、駆け出しのミュージシャン故、未だ車を持っていない。 碧は早く売れて車を持ちたい、潤さんの元に早く駆けつけられるのに、と思っていた。 お互いにはやる気持ちを抑えながら、お互いを待っていた。 潤は車を碧の前につけ、車を降りる。 「潤さん…」 碧の目の前には、潤が佇んでいる。 その瞳は、碧を連れ出す気持ちに溢れていた。 (碧、乗ろう…) 碧は頷くと、潤に手を引かれて車に乗る。 潤の細くも力強い掌に、温もりを感じる。 潤は碧を助手席に乗せて、自分の家に招待した。 碧は緊張しながら助手席に乗る。 潤の表情を見たくても、ドキドキして中々見られない… それでも、潤の隣にいることに、この上ない幸せを感じていたーーー 碧と潤はそれから数少ないながらも、時間が合えば一緒に過ごす時間を作った。 潤の家は東京郊外にあり、こぢんまりとした一軒家。 現代日本家屋風の住宅で、自然素材をふんだんに使われた、温かみのある家。 箱庭では、春は藤、初夏は紫陽花、秋は紅葉、冬は椿を眺められ、時折側にはたんぽぽが咲いており、四季折々を五感で楽しむことができる。 室内はこざっぱりとしており、木の香りに包まれ、季節の掛け軸や観葉植物のパキラなどが置かれ、癒される空間となっている。 一緒に食事を作ったり、食べながらお酒を嗜む。 潤は料理もお酒も好きで、長らく一人暮らしをしているせいか、野菜多めのおつまみのお菜を作る。 潤はあまり人の多い場所には出かけないので、オフの日はトレーニングに勤しんだり、人知れずドライブを楽しんだり、料理やお酒を嗜んでいた。 碧も潤の手ほどきを受けて、一緒に料理を作る。 不思議な事に、碧は手先が不器用にも関わらず、潤が教える事はすんなり頭に入り、出来る事が少しずつ増えてきたのだ。 今迄は教えられても「ちゃんとやらなきゃ!」という思いが先走り、緊張して内容が中々頭に入らなかったが、潤と一緒に作業をするときは教えられた事が自然にできるようになっている。 何故かはわからなかったが、潤と一緒に作業をする事に安心感が生まれるのだった。 潤は碧の危なっかしい手つきに不器用さを感じとったが、ゆっくり構えながら丁寧に教えていき、できたら碧を労い、一緒に喜ぶ。それが碧の安心にも繋がり、構えなくなったのだ。 「こんな俺にも、出来る事はたくさんあるんだね…」 また、不思議な事に、潤が声に出せなくても言いたい事を、碧は察するようになったのだ。 潤は相変わらずしゃべれないが、碧の表情を察したり、身振り手振りの会話に全て理解し、優しくて幸せな時間が流れていた。そして碧も、何故か潤が何を伝えたいかがわかっていた。   一方的に碧が喋るが、潤はいつも穏やかな表情を浮かべながら話を聞いていた。 夕食後のワインの途中、潤はレコード機材を見ながら、碧に目配せした。 「マーティ・バリン一緒に聴くって?一緒に聴こう!」 潤は微笑んで、レコードに針を落とす。 スタジオを一室設けているが、プライベートで音楽を聴く機材はレコードのみだった。 マーティ・バリンの「Heart」 優しそうな哀愁ある声が、ゆっくりと二人の心に響き、癒される。 こうして愛や想いを伝える事はなかったが、一緒に食事をしたり、音楽を聴いたり、他愛無い会話を交わすなど、一緒に日常生活を送るだけだったが、絆は確実に強くなり、お互いが精神的な支えにもなる。 二人の時は優しく流れ、癒し以上の心地よさもあった。 (この時間が、永遠に続けばいいな…) (ずっと、潤さんと一緒にいたい…) ワインの酔いに包まれソファに横たわった碧は、そう思いながら眠りについた。 潤は碧の華奢な身体に、そっと毛布を被せ、頭を優しく撫でたーー
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