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08)トラウマを超えて
碧はニューアルバムのレコーディングが連日続き、少々疲れが溜まっていたが、歌える喜びや潤と過ごすひとときを糧に頑張っていた。
碧と潤のオフの日が合い、いつものように、碧の元に潤が迎えに行く。
潤の隣にも、碧はドキドキするものの随分慣れてきた。
「潤さん、今ね、アルバムのレコーディングしてるんだ。売れたら車買って、今度は俺が潤さんを迎えに行くからね!」
碧は無邪気な少年のように、瞳を輝かせて潤に話す。潤はハンドルを切りながら、楽しそうに碧の話を聞いていた。
ここまでは、いつもの二人だったーー
潤が夕食の準備をいそいそと始めたので、碧は手伝おうとして、銀の大きめな鍋を見て全身が凍りついたーー
潤が夕食にカレーを作っていた。
「嫌だ!」
碧の突然の大声に、潤は驚いた。
小学生の頃のカレーのトラウマが残る碧は、激しく取り乱す。
体が震え、頭を抱えしゃがみ込む。
溢れたカレーと、同級生達の罵倒する声が蘇ってしまうーー
『お前、なんもできねーんだな』
『碧なんていない方がいい!』
『お前のせいでメチャクチャだ!』
小学校時代に受けた言葉の刃が、容赦なく碧を襲う。
まるで潤から、言葉の暴力を受けているようにも感じた。
本当は潤は碧を抱きしめて気遣っているのに、まるで心を激しく傷つけられるように感じ、乱暴に潤を突き放す。
潤は碧を見守るしかなかった。
潤は知らずに作ったとはいえ、碧を傷つけてしまった事を悟り、傷口を抉り出してしまった事に胸を痛めた。
やがて碧は、過呼吸に陥り息苦しくなる。
気持ち悪くなり、その場で嘔吐した。
潤は急いで碧を介抱したあと、その細い躰を抱きしめ、再び胸元に抱き寄せる。
自らの命の鼓動を、碧に当てる。
碧の荒い息遣いが、少しずつ安らかになってゆくーー
(碧に辛い事を思い出させてしまったんだね…
ごめんね…)
潤は碧の背中を優しくさする。同時に碧の苦しみを痛いほど思い知り、その瞳には涙が浮かんでいた。
碧は落ち着くと、自らの特性と、宿泊学習でのカレーの出来事を切々と語った。
時折言葉を詰まらせる。
「みんなのご飯…ダメにしたの…俺が悪かったのは…わかってる。
だけど…俺は何もできない…ダメな奴なんて…」
潤は碧の苦しそうな様子に「無理に話さなくていい」という意味を込めて柔らかく抱きしめる。
潤は強く碧を抱きしめ、涙を流した。
(こんなに自分を責めるほど…辛い思いをしてたなんて…)
潤の細くも力強い腕の中で、碧は「安心できる」という気持ちを知る。
同時に、潤は碧の過去に傷つき、全身で泣いていた。傷みを心から寄り添ってくれていると感じた碧は、潤に縋りついて涙を流した。
そして、今の碧にとって大切な事を心で伝える。
言葉で伝えられない為、抱きしめる手に少し力を入れた。
(碧、生きづらい思いをして、今迄よく頑張ってきたよね…
碧には、素敵な魅力や素晴らしいものがたくさんあるんだよ…)
潤の想いが、碧にゆっくりと伝わる。
優しい心地よい風が、そっと身体を包み込むように…
(この人は…潤さんは…俺の事をわかってくれる…)
碧は潤に包まれ、心から安らいでいたーー
「潤さん、ごめんね…
潤さんに乱暴なことして…
潤さんの服、汚しちゃって…」
碧に言われるまで、潤は自分の衣服が汚れている事に気付かなかった。
「潤さん、着替えてきたら…」
潤は「待っててね、すぐ戻るから」と碧に目配せして、碧からそっと身体を離し寝室に消えた。
このとき何故か、一瞬だけ部屋の鍵がかかったように碧には聞こえたー
潤は直ぐに戻り、優しい眼差しを碧に向けてからキッチンに行き、カレーを捨てようとする。
その手を、碧は寸止めした。
カレーは溢れずに済み、鍋に残ったままだった。
「せっかく…潤さんが作ったのに…捨てないで!」
碧は自らのトラウマ以上に、潤の作ったものを捨てられる方が悲しいことに気づいた。
(これ以上、食べられなくなっても悲しいよ…)
「潤さん…カレー、食べるよ…」
潤は、碧が我慢している事ではないと確認すると、ご飯をよそい、カレーを注ぎ、皿とレモン水を碧の前に置く。
(食べられるだけ、食べてみてね)
潤は瞳で伝えると、碧は頷いた。
碧は一口食べてみた。
「おいしい…おいしいよ…」
碧は涙をポロポロと流しながら、一口ずつゆっくり食べる。
ほんのり辛味があるのに、優しい熱で包み込まれる。
温かいじゃがいも、柔らかく煮込まれた人参、
玉ねぎを煮込み、野菜の旨みをふんだんに使った優しさあふれる味。
気がついたら、碧は普通量のカレーを完食していた。
潤が作るカレーは、素朴で優しい温もりがあった。
まるで、料理が人柄を表すように。
(いつか潤さんと、カレーを一緒に作れたらいいな…)
碧に前向きな気持ちが芽生える。
潤の温かい想いは、優しいようでトラウマを超える強さもあったのだ。
(俺には、潤さんしかいないんだ…
この人といると、何もかもが落ち着く…
だから、潤さんを大切にしたい…
潤さんが、好きだから…)
碧の中で、はっきりと潤への愛が芽生えていたーー
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