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☆☆☆
匂の宮が晴明を訪ねる少し前――王都の北東、いわば鬼門にあたる地に男が立っていた。
狩衣に伸び放題の髪、手には錫杖を携え、男はあるものの前でにいっと口の端を緩めた。
鬼門とは丑寅(※北東)から鬼が出入りするとされた方角で、対角の南西も「裏鬼門」として忌む対象にある。
平安王都(※平安京)を築く際、東西南北に青龍に白虎、朱雀に玄武の四神(※東西南北の守護神)をおいたのも異界からの侵入を防ぐためだという。
だが鬼は、決して異界からやってくるだけとは限らない。
男が思うに、鬼よりも人間の方が恐ろしい。欲に嫉妬に憎悪、これらの負の感情が時には人を陥しめることになる。
「ここか……」
目の前には、岩を積み重ねた祠があった。ここには鬼が一人封じられている。
今から百年前――権力争いの末に、この世のあらゆる者を憎み鬼となった人間のなれの果て。その怨念が恐ろしかったのか、権力たちは術師に祓わせたという。
だがもはや、ここの鬼に人を祟る力はない。それでも、男はその鬼に用があった。
「……戻リタイ……。コンナ……筈デハナカッタ……」
おそらくここを人が訪れたのは、男が初めてだったのだろう。封じられるに至った後悔と現世に帰りたいと訴えてくる。
だが、男は鬼をここに封じた術師とは違った。
「さぁて、お前はどうする? 鬼になった者を救うなど言っていたが」
男が言った〝お前〟は、鬼に対してではない。
彼は闇に堕ち、鬼になった者は救われないと思っている。現に目の前の鬼は封じられたまま、今も悔いている。
男が鬼に抱くのは、救いの情でも哀れみでもない。ここにきた目的は、退屈な世への意趣返しといっていいだろう。
男が祠に向けた錫杖の先が、シャンッと音を立てた。
青白い閃光と共に祠の岩に亀裂が走り、中から出てきたのは鏡だった。
呪力はさして強くはないが、この王都は結界の宝庫である。ここの結界を壊したところで王都に支障はないが、男は徐々に追い詰めていくのを楽しみにしている。
ある意味、彼も闇に堕ちた一人。
だが男は後悔はしていなかった。闇に堕ちたことも、結界を壊したことも。ゆえに王都がどうなろうと構わなかった。
男が面白いと思うのは、こんな自分でも能力に頼った人間がこの王都にいることだ。
さて、これから楽しくなる。
ゆっくりと高みの見物でもしてやるかと、男は祠に背を向けた。
妙に生温かい影が男の髪を煽ったが、それすらも心地よく思えるのであった。
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