第一話 動き始める敵

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第一話 動き始める敵

「ねぇ聞いた? 梨壺さまのところ、またご不幸があったとか」  御所内・七殿五舎――女房たちの噂話に(しよう)()は歩を止めた。 (まったく……)  噂話は毎回のことだが、梨壺の話となると笙子は聞き逃すことはできない。 「きっと、鬼に祟られているんだわ。身の程をわきまえず、主上(おかみ)(※帝の呼称)に侍るからですわ」  一発殴ってやろうかと思ったがここは帝の座す御所の中、笙子も宮仕えの身にある。女房装束のまま勇ましく殴り込んだと聞けば、笙子の父は寝込むかも知れない。  更衣は七殿五舎の中では位は女御の下だが、帝のお召しがないわけではない。しかし名家揃いが住む七殿側にとっては屈辱らしい。ましてや男宮を産んだとなると、嫉妬心を燃やしてくるのが七殿五舎の最高位にして東宮の母、弘徽殿の女御である。  半年前――梨壺の主・梨壺の更衣は、帝の子を産んだ。それからまもなく、弘徽殿から贈り物が届いたが、蛙の死骸が入っていたりと明らかな嫌がらせである。 (あなた方が祟ったんじゃなくて?)  笙子は眉をひそめつつ、心の中で思うと態とらしく咳払いをした。  御簾の中からは、そそくさと退散していく女房たちの衣擦れが聞こえ、笙子が歩を進める()子縁(こえん)は静かになった。  梨壺に入ると、梨壺の更衣が黒漆に金彩の箱を抱いていた。 「ちょうどいいところに来たわ、尚侍(ないしのかみ)(※女官の地位)。お菓子をいただいたの、食べない?」  梨壺の更衣は九条中納家の姫で、温和な性格で美人である。()(おう)(たん)()(おう)・萌黄と女房装束の襲も立派で、炊かれる香も文句なしである。帝がお気に召すのも無理はない。 「まさか、弘徽殿の女御さまからではないでしょうね?」 「そうだけど?」 「また変なものが入っていたらどうなさいます?」 「あの方はそんないたずらはしなくてよ。尚侍」 (さぁ、どうだか……)  弘徽殿の女御が直接なにかをしてきたということはなかったが、梨壺の更衣の懐妊に敏感に反応したのは弘徽殿である。現に嫌がらせの品を贈られきた。 ゆえに、笙子は疑いたくなるのである。ただ、梨壺の更衣は人を疑うことをしない人で、さらにのんびりとした性格である。残念ながら帝との子は一月(ひとつき)で亡くなり、ようやく立ち直ったばかりだ。 「問題は、千早のことだわ」  そう言った梨壺の更衣の柳眉が寄る。 「まだお目覚めにならないのですか?」 「ええ。薬師の話では特になんの異常もないと言うの」 「何もないのなら何故お目覚めにならないのです?」  梨壺の更衣の妹君、九条中納言の二の姫は名を()(はや)という。今年十六で、姉妹揃っての美姫である。 「困ったわ。主上がせび会いたいと仰せなの」 「まさか、お見染めに?」  九条中納言の二の姫・千早は、御所での(にい)(なめ)(さい)の折に五節の舞を舞った一人である。だがそれから一月後、彼女は突然目覚めなくなった。  普通なら飲まず食わずでは躯は衰えてしまうが、見立てた薬師のよるとそうでもないらしい。祈祷もしてもらったそうだが、千早は今も眠り続けている。 「お見染めになったのは主上ではなくてよ」  告げられた名に、笙子はごっくんと生唾を呑んだ。  千早を見初めたのは、東宮だという。次期帝に見初められるのはいいことなのだが、問題は東宮の母が弘徽殿の女御だということである。 「更衣さま、やはりこのお菓子は食べないほうがいいかと……」 「あら、どうして? せっかくいただいたんですもの。食べなくては失礼だわ」 「ならば毒味をさせていただきます」  笙子はある日から、妙な能力がついた。鬼が視えたり、匂いを嗅ぐだけでその人物が害となるかそうでないかわかるのだ。毒味に関しても嗅ぐだけで食べられるかわかるので、実家では利き酒ならぬ利き(あじ)をさせられることがある。  そんな笙子が側にいるせいか、おかげで梨壺の更衣自体にはなんの害も飛んでこないのだが。 「でも本当に困ったわ。主上に相談するわけにはいかないし」 「更衣さま、あの方に相談されては?」 「あの方?」 「安倍晴明さまですわ」  梨壺の更衣は「まぁ、その手があったわね」と扇で口元を隠しながら言った。  笙子がそう切り出したのは、笙子の兄が晴明と友人だったからだ。  なにしろ笙子の実家は右大臣という地位にあり、関白・藤原家と並ぶ名家にして先帝の后妃となった姫を輩出した家柄である。  残念ながら后妃には子に恵まれなかったが、当時から右大臣家の政敵である藤原道房は野心を燃やしていたらしく「困った御仁だと」父が嘆くのを笙子は何度も見ている。  さて、その安倍晴明だが――。
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