根っこ

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 自分でもよくやり切ったと思う。これもみな、妻が残してくれていた『私が死んだときメモ』のおかげだろう。メモには、人が亡くなってからの段取りや、妻が親しくしていた人の連絡先が残されていた。私は、何とかそこに書かれていることをやり遂げた。結婚してからずっと専業主婦だった妻にはそれほど多くの友人はいなかったようで、連絡する相手が少なくて済んだ。そのことに申し訳なさを感じなかったといえば噓になる。  妻は、夫の私も気を使うほどできた嫁だった。  炊事、洗濯、掃除。一通りの家事を休みなくこなし、妻には義理にあたる父と母の世話もしてくれた。子どもができてからは、もっと忙しかっただろう。それでも、仕事をして帰ってくる私を、いつも笑顔で迎えてくれた。妻の口からは文句の一つも聞いたことがない。  愚痴ぐらい、いくらでも聞いたのに。  とにもかくにも、無事に終わった妻の葬儀から一夜明け、私はコップ一杯の水道水をあおった後、妻の遺品を整理するために書斎へ入った。  書斎に入ると、一人で本を読んでいる妻の姿が目に浮かんだ。老眼鏡をかけ、熱心に読書をしている妻の姿には、誰も寄せ付けない気品ともいうべきオーラが漂っていた。  書斎には大きな本棚が4つ並んでいる。  子どもの頃、私が両親に買ってもらった百科事典や辞書。妻が好きだったシリーズ物のミステリー小説。たくさんの本が少しの埃をかぶって並んでいた。 中でもひときわ目を引いたのは、奥の本棚の一番上に並んでいる同じ背表紙の58冊にも及ぶ冊子だった。  —DIARY  それは、私と結婚してから妻が書きはじめた日記だった。故人の日記をそのままにしておいていいのか、捨ててしまう方がいいのか。『私が死んだときメモ』には書いていなかった。そのままにしておいても誰かが続きを書くわけでもないし、このまま誰かに読まれてしまう前に処分してしまったほうがいいのだろうか。  ふと思い返してみれば、私と妻の間に二人の思い出といえるものはあっただろうか。結婚してからも私は働きづめで、家に帰るのは夜遅くだった。父から社長業を継ぐために休日も勉強に励んだ。子どもができてからは三人で出かけることもあったが、妻と二人で出かけた思い出は、結婚する前にも、した後にもなかった。それなのに妻は何も言わずに私を支えてくれていた。 本当にそれでよかったのだろうか。  あの人と結婚していれば、妻はもっと幸せだったのではないだろうか。 他人を支えるだけで終わった人生で妻は幸せだったのだろうか。  そんな気持ちが、妻が死んだ今になって、とうとう口にできなかった後悔として私の中に残った。
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