1 セラミックスの響き

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1 セラミックスの響き

(壁の写真)  愛実の家は古い黒の板塀と山茶花の垣根に囲まれた広い敷地の中にあった。 昔はさぞかし立派だった門構えも、今は朽ち果ててしまい格子戸も屋根もなく、ただの太い柱だけが今も二本、誇らしげに立っていた。  この門をくぐると、山茶花の植え込みがゆるやかに曲がりながら玄関まで続いている。  その行く道には枇杷の木や栗、欅、梅、つつじなどの高木が、あまり手入れもされずに茂っていた。  そして母屋は、やはり古く純日本風のたたずまいで、当時に比べればかなり手直ししているものの、表の壁板などは京都の町屋のようなおもむきがあった。 「おはようございま―す」と元気な声あげて入って来たのは、愛実の親友の麗子だ。麗子の家は、愛実の家のすぐ右側のお隣さんだ。 彼女が愛実の家に上がる時は、いつも玄関を使わない。玄関に入る少し手前に庭へ通じる垣根の切れ目があり、そこから庭を横切って、南向きの長い縁側の窓から上がる。 「おはようございます。アミ、起きています?」  麗子は縁側のちょうど真ん中の窓をあけて、廊下の向こうの居間で新聞を広げて見ていた愛実の祖父、栄二郎に挨拶をした。 「おはよう、麗子ちゃん。セーラー服似合うね―」  栄二郎は目を細めながらご満悦で麗子を見ていた。 「おじ様、昨日もアミと見せに来たばかりじゃない」 「そんなことはないよ。女の子は一日一日と美しくなるからね―」 「ありがとうございます。おせいじでも嬉しいわ。それより、アミは…?」  栄二郎は、また新聞に目をやりながら、 「起きているよ。昨日から寝てないみたいだから」 「またですか。今日から学校が始まるというのに、学校、行くんでしょうね?」  麗子は困った顔で、祖父を責めた。  栄二郎は少し顔を麗子に向けながら、 「そりゃ―、行くだろう―。セーラー服を着て、わしらに見せて、はしゃいでいたからね―」  栄二郎は、その時のようすを思いだしたように微笑んで見せた。 「でもアミのばあい、セーラー服が好きと、学校に行くのとは別問題だから…」  麗子は、そう言いながら踏み石の上に靴を揃えて廊下に上がった。 「それより、おじ様。ずいぶん、のんびりしているようですけど、入学式には行かないんですか?」  栄二郎は驚いたように麗子に聞き返した。 「麗子ちゃん。入学式というのは親子同伴なのかね。アミは何もいわなかったが―」 「それはですねー。親子同伴とは決められてないですけど、参列は自由で、案内のプリントに書いてありませんでした?」 「いや、見てないけど…」  麗子は、祖父の無関心さに驚きながらも、 (こう言う、お父さんもいいな―この場合は祖父だけど)と思っていた。  麗子の家ではかわいい娘とあって、父親母親そろって、めかし込んで出かけてくる。  そのうえビデオカメラまでかついでくると言う騒ぎだから、子供としては恥ずかしい。  それでいて何かほっとする気持ちは、親に愛されているという確認なのかも知れない。  麗子は、このさい愛実だけに気楽な思いをさせてなるものかと、 「普通はどこの親も行きますよ。私の親も行きますから。それに誰にも見てもらえないというのも子供としては寂しいものですよ…」と心にもないことを言った。  栄二郎は新聞をゆっくりと畳みながら、 「そうだね―、私がアミを学校には行かせたくないと思っているから、それで気遣って、なにも言えなかったのかも知れないね―」 「きっとそうよ。アミはやさしい子だから。だから今度は、おじ様がアミの気持ちをわかってあげてっ!」と言いながら顔をそらして、小さくベロをだした。  麗子は、愛実の部屋に向かおうとしたとき、庭の奥から祖母、文枝の声がした。 「レイちゃん。アミならピアノの部屋よ!」  麗子は慌てて飛び込んできたので、庭を通りながら庭の手入れをしていた文枝に気がつかなかった。 「あっ!おはようございます。おば様も入学式に行かないんですか?」 「私も行ってもいいのかね―。入学するわけでもないのに?」 「そんなっ、おば様が入学するわけないじゃないですか。そういう問題じゃなくって…」  麗子は、だんだんいらだってきた。  そのいらだちが急いでいたことを思い出させた。 「そうだ、こうしてはいられないんだ。おば様、アミのためにも絶対来てよね!」と言い残して麗子は、廊下を少し早歩きで離れに向かった。  離れとは、母屋の西側のはずれに増築された所で、防音設備の整ったピアノ専用の練習室だった。  広さは三十畳ほどだが、天昇までの高さは六メートルくらいある。その真ん中にコンサート用のグランド・ピアノが一台置かれていた。  麗子は微かに聞こえるピアノの音で、愛実がいることがわかった。  そして、重い扉をゆっくり開けると、今まで重い扉に押さえられていた音たちが、小さなすき間を目指して一斉に飛び出してきた。 「あっち…」  その音たちは、麗子の体に体当たりでぶつかり、跳ね返り通り過ぎていった。 「熱が入っているな―」  愛実は、すでにセーラー服に着がえていて、学校に行く準備は整っていた。  麗子は普段と違う愛実に、何か特別のものを感じて、うかつに声をかけられなかった。  でも時間がない。 「アミ、もう時間よ!」  しかし、ピアノは鳴りやまない。 麗子は仕方なく愛実の演奏をしばらく聴くことにして、壁に張り付くように置かれているソファに腰を下した。  ふと目線を正面の壁に移したとき、愛実の両親が仲良く並んで笑っている写真に気が付いた。  愛実の両親は、愛実が生まれて一歳のとき、飛行機事故で帰らぬ人となった。  愛実の母真理は、少しは名の通ったピアニストで、ちょうどその時、パリでの演奏旅行の帰だった。  そして、もっと悲惨なことには、栄二郎夫妻の勧めで、まだ赤ちゃんだった愛実の面倒を見ることで、栄二郎の息子、愛美の父、俊之介も一緒に行き、帰らぬ人となった。  栄二郎は自分が勧めたことで二人を死なせてしまったことに責任を感じ嘆き悲しんだ。  そして、この息子以外に子供がいなかった栄二郎は息子に報いるためにも、自分のすべての財産を愛実に受け継いでもらうためにも、親戚の反対にもかかわらず、愛実を育てることになった。  しかし、そんなことよりも息子に代わって愛実を立派に育てたいと言う気持ちが強かったことは言うまでもない。 「お母さんに、報告しているの…」  愛実からの返事はなかった。 そして、ピアノが一段と激しく鳴り響いてから、静かに余韻を残すように終わった。 「そんなこと、ないよ。ここんとこ春休みに入ってから、絵ばかり描いていて、ピアノがお留守だったから。やっぱり、全然調子よくいかないや―」  愛実からの始めての返事だった。 「そう、絵は描けたの?」 「まだ全然だめ!」 「でも今日から、学校が始まるよっ!」 「わかってる…」  愛実は、ピアノのふたを閉めて立ち上がった。 「さ―早く学校に行かなくっちゃ!」  愛実は、演奏の余韻に浸っている麗子の手を引っ張るようにして、練習室を小走りに出た。 「ちょっと待ってよっ!」  麗子は、からまりそうになる足に気を取られながら、さっきまでの愛実の寂しそうな後ろ姿を思い浮かべていた。  愛実は、麗子のそんな気持ちを吹き飛ばすように廊下を走り抜けようとしていた。  バタバタバタ、バタバタバタ、 何しろ時代物の屋敷だけに、その音は家中を駆けめぐった。  もちろん、栄二郎の耳にも届いた。  栄二郎は、起きあがりながら廊下に向かって一括しようと思ったが。  しかし、その時には二人の姿はもう庭先を出て行くところだった。  去っていく二人は、恥じらいもなくスカートの裾を跳ね上げて無邪気だった。 あのまま学校まで駆けて行くのではないかと栄二郎は心配した。 (同じクラスになる不思議)  学校に着くと、校庭には特設の掲示板が置かれ、すでに登校してきた生徒が集まっていた。  その掲示板には各クラスの生徒の名前と、担任の名前が張り出されていた。  愛実と麗子は、急いで自分のクラスを探した。 「あった。三組だっ!」  最初に見つけたのは麗子だった。そして、愛実は麗子のクラスから自分の名前を探した。 「やっぱり一緒だね!」  愛実と麗子は、お互いの顔を見て微笑んだ。  実は、この二人。幼稚園、保育園のたぐいは通っていないので、小学校から 今まで別々のクラスになったことがない。  なぜかと言えば、どうやら小学校入学時に愛実が引き起こした事件が原因になったようだ。  それは愛実と麗子が小学校に入学したときのこと、そして別々のクラスになったことから始まった。  その当時、勝ち気だった愛実は五歳の時から、いつも一緒だった麗子と、別々のクラスで勉強しなければならないと言うことが納得できなかった。  だから愛実は事あるごとに麗子のクラスに行き、麗子の隣の席から動こうとはしなかった。  そして担任は、そのたびに愛実を元のクラスに戻すが、しばらくするとまた、愛実は麗子のクラスに戻っていた。  あるとき、たまりかねた担任が、 「先生のいうことが聞けない人は、もう学校に来なくてもいいです!」と愛実を叱った。  愛実はそれを聞くと、 「じゃ―、あたし帰る!」と教室を出ていってしまった。  そのころ愛実の後ばかりついていた麗子も、 「私も帰る!」と愛実と一緒に帰ってしまった。  担任は、子供のことだから明日になれば、また登校してくると思っていたが、しかし二人は登校して来なかった。そして翌日も…。  担任は心配になり、まずは愛実の家に電話をした。そして栄二郎が出て、愛実は学校には行かないと告げた。変わっていたのは愛実だけではなかった。  その夜、栄二郎と麗子の母、そして二人の担任とで話し合いがもたれたが、やはり一度決めたことは守ってもらわないと学校運営が成り立たないと言うことだった。  栄二郎は、その意見に納得していった。 「何も無理やりクラスを変えてくれと言っているわけではない。ただ娘が学校へ行きたくないと言っているから、行かせないだけで、行きたいと言えば、もちろん止はしませんよ!」と栄二郎は、先生方に言った。  しかし、そんなことを言われても、子供を学校に行かせるのは大人の義務だから是非来させて欲しいと頼んだ。  それなら二人を同じクラスにしなさいと栄二郎は頑固譲らない。  しかし、それはできない。話し合いは平行線のままだった。  仕方なく担任は栄二郎の方では話が着かないと思い、今度は麗子の母に頼んだ。  麗子の母親は困っていた。  普通なら「はい、わかりました」と、言うところだけれども、彼女の場合、そう言えない事情があった。  なぜなら、たまたま愛実の家の隣に引っ越してきてから今まで、栄二郎の家で、麗子を見てもらっていたという負い目があった。  それに、ただ見てもらっていたわけではなく、英才教育的にピアノまで教えてくれていた。実際、このことの方が麗子の両親を喜ばせた。  それがために、普通なら保育園や幼稚園に通わせる年頃になっても、栄二郎がそういうものには通わせないと言ったことに合わせ、麗子にも通わせなかった。  しかし、今回の場合、保育園、幼稚園とは違い、義務教育だ。簡単には答えが出せない。  この日の話し合いは、このまま終わった。そして、やはり二人は学校には行かなかった。  三日たって、今度は校長と教頭と学年主任。そして二人の担任と数を集めてやってきた。  しかし、話は相変わらず、平行線のままだった。  しばらくして、話の進展のなさにしびれを切らせた校長は愛実と直接話すことで説得しようと思った。 「私は、きちっと理由を話せば子供達にもわかってもらえると思っています」  栄二郎は、何時ものように少し笑いながら、 「校長先生、これは価値観の違いですよ。あなた達は規則を守らない愛実たちが悪いと言った。しかし私に言わせれば、愛実たちの仲を引き裂く先生の方が、もっと悪いと思いますがね―」  校長には、栄二郎の微笑が子馬鹿にされているような不快感があった。 「お父さん。これも教育です。子供たちに、きまりを守ると言う社会性を養わせるための一つなんですよ!」  栄二郎は、尚も笑いながら、 「きまりも、社会も、上から押さえつけるだけでは、今のアミたちのように逃げ出してしまいますよ。きまりも、社会も、人の心の通いあうものでなければ、人は幸せには暮らせないんじゃ―ないですか」  校長は少し大きな声で、 「ご高説もっともですが、これも教育です」と、譲らない。 「そうですか。私は構わない。子供たちに従います」  校長は身勝手な親に、少し憤りながら、 「お父さん。子供たちは、家にいたいに決まっているじゃ―ないですか」  栄二郎は校長を見据えたまま、 「それなら、そういうことです。子供たちが行きたがる学校を作ってから迎えにいらっしゃい」  そして、栄二郎は愛美を呼んだ。 「アミ、学校に行くかね?」と、栄二郎は訊く。 「私、行かない。おうちでピアノ、弾いている」 「アミちゃんは、ピアノが好きなんだね。学校でもピアノは弾けるんだよ―」  校長は笑顔だった。 「いやっ。先生、意地悪だから嫌い。私、弾きたくないもの―」  子供に、はっきりと嫌いと言われて傷つかない大人はいない。  愛実の言葉を聞いて栄二郎は、 「そういうことです。私たちなら心配はいりませんよ。家にいても、私が思いやりのある立派な人間に育てますからっ!」  校長は、栄二郎には話さず、再び愛美に話した。 「アミちゃん、学校にはたくさんのお友達がいるんだよ。みんな仲良しアミちゃんを待ってるよ―」 「お友達はレイちゃんだけ。あとの子はいらないっ」  校長が思っているほど、愛美は話のわかる子ではなかった。 「アミちゃん。これは規則なんだよ。日本の国がね。子供はみんな学校で勉強しなさいって決められているんだよ。わかってくれるね―」 「そんなことないわ。先生帰っていいって言ったもん!」  それを聞いて、担任の先生が慌てて、 「ごめんね。先生、間違ってた。アミちゃんには、また学校に来て欲しいな―」と横からすまなそうに謝った。 「それなら、レイちゃんもいっしょっ?」  愛美は嬉しそうに訊き返した。  しかし、担任の先生は愛美の気持ちに反して、 「レイちゃんは別のクラスだから、いつもはいられないけど、休み時間には会えるじゃない―」と学校にいたときと何も変わってない。 「それなら私、行かない。レイちゃんとおうちでピアノ弾いているもんっ」  愛美の答えは簡単だった。 「レイちゃんは明日から学校に行くと言っているよ」  校長は嘘を言った。  愛美は黙ってしまい、少し考えてから、 「レイちゃんは行きたければ、行けばいいじゃない。私は行かない。私、おじいちゃんとおばあちゃんがいればいいから…」  愛美は少しむくれて言い返した。 「でもアミちゃん。これは規則なんだ―」  校長が、さらに追い討ちをかけるように迫った。  愛美は泣き出しそうな顔をしながら、 「私、行かないって言っているでしょう。学校なんて、馬鹿みたい。みんな同じことばっかりやっていて。アミは、おうちでピアノを弾くの!」  泣きそうになりながら言い張る愛美に、校長はそれ以上何も言えなかった。 「馬鹿みたいだそうですよ。愛美が学校に行って感じたことです。私が言ったわけじゃない」  栄二郎は、愛美の言葉を強調するように付け加えた。  先生方は、愛美の言葉に困惑しながら、沈黙が続いた。  話の進展がこれ以上ないと見た栄二郎が、先生方の帰宅を間接的に促した。 「アミ、先生方はお帰りだ。最後にピアノでも弾いてあげなさい」 「いやよ。私、先生嫌いだもん!」  愛美は、さっきまでの会話で、意地悪されたような不快な気持ちが残っていたのか、素直にはきけなかった。 「どうやら、嫌われてしまったようですね」と校長が少し照れながら愛実から離れた。  校長が黙ってしまったことで、今まで発言を控えていた学年主任の男性が口を開いた。 「お父さん、やはり家にいては、わがままになります。集団の中でこそ自制心が養われると思います」  すかさず、栄二郎が反論した。 「アミは、わがままな子ではないですよ。あなたは、アミの一面しか見ていない。学校に行かない子は、みんなわがままと考える。そうじゃない。先生方が今までアミに何をしてきたのか考えれば、アミの気持ちがわかるはず。つまり、最初にアミの気持ちをきかなかった先生こそアミから見れば、わがままな大人なんですよ」 「でも、それが学校です」 「それは大人の理屈でしょう。子供には通じない」  栄二郎は、愛美をそばに寄せながら、 「アミ、先生方はアミを心配して来てくれたんだよ」 「私、来て欲しくないわっ!」 「アミ、大人はみんな辛いんだよ。これも、先生としての辛いお仕事なんだ。せめてこの家に来たときぐらい、やさしくしてあげなさい」 「…うんっ。じゃ―やさしくしてあげる」  愛美は、そう言うとピアノに向かった。  そして、やわらかなショパンのノクターンを弾だした。  そのやさしい調べは、さっきまでの重々しい雰囲気を一変させた。  愛実のピアノは、大人たち一人一人の心に、驚きとともに響いた。  校長は、思案に暮れながら、やさしく心をなでるような愛美のピアノの響きに心をなごませた。  そして、先生方は顔を見合いながら、六歳にしてショパンを弾く愛美に驚き、普通でない愛実の実態を知った。 「信じられない。とても普通では考えられない!」 「どうして、こんなに弾けるんですか?」  先生方が、口々に感嘆の溜息をもらすと、校長は先生方の私語を静めた。  しばらくして演奏が終わると、校長は愛美に話しかけた。 「ありがとう。素晴らしい演奏だったよ。先生、気持ちが楽になったよ―」 「そうっ、よかったね。また、疲れたらおうちにおいでよ。ピアノ、聴かせてあげるから…」 「また、弾いてくれるかい?」 「いいわよ!」 「そうっ、それじゃ―先生たちが意地悪したことを許してくれるかい?」 「いいわよ!」 「じゃ―、レイちゃんと一緒なら学校に来てくれるかい?」 「学校に行くの?考えとくわっ!」 「レイちゃんと同じクラスだよ?」 「……考えとくわっ!」  校長はそう言うと、先生方の方を見て、 「アミちゃんとレイちゃんは、一緒のクラスにしましょう」 「校長、そんなことをしたら他の父母が黙っていないと思います…」  他の先生方も、校長の変化に驚いた。 「いいじゃ―ないですか。出来るだけ、子供たちの希望を聞きましょう。親の希望ではなく、子供たちの希望です。まだ、新学期が始まって一週間。こういうこともありますよ」 「お父さん。そう言うことでお願いします」 「私は、アミの気持ちに任せているだけです」 「は―あ―」  こんな騒動があって以来。愛美と麗子は別々のクラスになったことがない。またクラスを変えて学校に来なくなっても困ると先生方が思ったのかもしれない。  それとも、これを契機にして愛実だけは、それからも平気で学校を休む問題児になってしまったことが原因かもしれない。  ともあれ、中学校に上がっても同じクラスということで、二人は安心した。 (入学式の騒動)  そして、入学式は体育館で開かれた。  体育館といっても、この中学校の体育館は少しばかり違う。  中学校の地域に、ピアノをはじめとする楽器製造会社の本社ビルがあったおかげで、体育館改築のおり、この会社の資金と街とで、地域の人にも利用できる、楽器の街にふさわしい多目的ホールを建設した。  普段は中学校の体育館として使い、夜や学校の休みなどは、地域の人に音楽会や演劇など文化面においても使用できるように設計された。  そこには最新の音響設備を整え、バスケットコート四面が取れるフロアーの回りには、三千人を収容できる観客席が設けられていた。実際、この街の交響楽団がここを住処に活動していた。 「うを―お―、凄い体育館だね―」  麗子があたりをきょろきょろしながら、はずむような声をあげた。  さすがに音楽堂をかねるだけあって、鉄骨むき出しの体育館とは違った。  しかし、愛美は体育館の美しさも気に入っていたが、舞台正面から聞こえてくるピアノの演奏に注目していた。 「レイ、凄いピアノだね。誰が弾いているのかしら」 「そうね。少しは出来るわね…」 「でも、あのピアノ、音がへんよ?まるでガラスを叩いているような音…」  愛美は、演奏もさることながら、ピアノそのものに聴き覚えのない不思議なものを感じていた。 「そうね。弦の濁りがない。それに立ち上が速すぎる。電子ピアノ?」  麗子は、いち早く最近流行のコンピューター仕掛けの電子楽器を思い浮かべた。  しかし愛美は、 「電子ピアノにしては音が生きている。スピーカから作られた音ではないのよっ!」 「何かしら?ね―え、後で行ってみない?」 「うんっ!」  二人の気持ちは、もはや入学式よりも、謎めいたピアノに心を向けられていた。  式は、四十分ほどで終わった。そして、新入生の退場に合せて、またあのピアノの演奏が始まった。  各組それぞれ教室に向かう流れの中、愛美と麗子は、流れとは逆に舞台へと急いだ。  そして、ピアノに近づくほど、その音は更に勢いを増し愛美たちの心を高鳴らせた。  ピアノは、床より三段高い円形の舞台の上に堂々とした存在感をもって置かれていた。 「やはりこの先生、桁外れに上手い!」  愛美は、麗子に耳打ちした。  会場の新入生が全員退場したところで演奏は終わった。 「先生。私にも弾かせてっ?」  愛美が、唐突にも子供っぽく舞台に向かって叫んだ。  三十歳くらいの、少しハンサムな青年教師は、振り向き愛美たちを見下ろした。 「おっ、新入生だね。こっちに上がっておいでっ!」  青年教師は、笑顔で愛美たちを手招いた。  愛美たちは、勇んで階段を登って、円形の舞台にあがった。 「わ―あっ、大きい。これ、コンサートピアノより遥かに大きいんじゃない?」  愛美は、昔から知っている友達のような口振りで話した。 「よくわかるね―。たぶん世界一大きなピアノだよ」  青年も友達のように話しながら、愛美にピアノの席を譲った。 「先生、このピアノ、八十八鍵以上あるよっ!」 「ちょっと流行を取り入れてね。九十六鍵あるんだ。実用性はないけどね。共鳴弦としての役割がおもだよ」  青年教師は誇らしげに、ピアノの特徴を説明した。 「先生、弾いてもいいっ?」 「もちろんさっ!」  愛美は、おそるおそる鍵盤に触れた。  そして、得意のベ―ト―ベンのソナタ「月光」を弾こうと鍵盤を押さえた瞬間、愛美は未だかつて経験したことのない空を切るような手応えのない鍵盤に驚いた。しかし、手応えがないのにも関わらず、その音の大きさと、音の跳ね上がりは、普通のピアノの二倍三倍は響いた。  愛美は、思わずお腹に力を入れて上半身の力を抜いた。そして、やさしくやさしく、ピアノに言い聞かせるように、演奏を始めた。 「驚いたね。まさかこんなに綺麗に弾けるとは思わなかったよ―」  青年教師は、感心したようすで愛実を見た。  そして、愛美の演奏に心を捕らえられたのは、青年教師だけではなかった。  教室に移動しようとした父母たちも、愛美の演奏の響きに誘われて、まだ式が続いているのかと思い、もう一度体育館に集りだした。  その場にいた先生方ですら、式の続きと勘違いして、愛美の演奏に聴き入ってしまっていた。  さっきまでの人の動きが止まり、会場は愛実が放つ月光の中で鈍く照し出されていた。  その響きは今日、見てきた校庭の満開の桜の木を会場の中かに咲かせた。闇に月光に照らされる夜桜。そして、吹く風は春の嵐にも似て、花吹雪を散らす。月光は、その花吹雪を操るようにキラキラと踊らせた。  回りの変化に最初に気づいたのは麗子だった。 「これはやばい。先生方が、演奏に注目している」と麗子は小声で愛美に伝えようとしたが、しかし愛美の心は、すでにピアノの中にはい入り込んでいた。  すると、青年教師が麗子の肩に手を乗せた。 麗子は、冷や汗をかきながら、もうじき終わる第一楽章を待つしか手がなかった。  そして、愛美が最後の音を鍵盤に置いたとき、青年教師は、愛美に大きな拍手を贈った。  その拍手につられるように、回りの先生方も愛美に拍手を贈った。父母たちも、それを見て拍手を贈った。会場は一変して拍手の波でおおわれ、愛美はびっくりしながら、おそるおそる立ち上がった。 「ちょっと。これ、まずい雰囲気…」  愛美は、麗子の顔を見た。 「…」  麗子は、顔を引きつらせている。  しかし、愛美は何気ない顔で、青年教師に丁寧にお辞儀をした。そして、体の向きを変えて先生方にも丁寧にお辞儀をした。  すると、愛美はいきなり麗子の手を取って、拍手の鳴り止まない中を出口へと駆け出した。 「アミ、ちょっと待って!」  麗子は、またも足がもつれながら愛美を追った。  愛美たちが去った後、司会を勤めていた先生が、事情がわからないまま、 「式は、これをもって終了します。父兄の方は教室の方へどうぞ…」と再びアナウンスした。  これが、愛美とセラミックス・ピアノとの初めての出会いだった。  愛美たちが教室にたどり着いたときには、すでに担任がいて、新学期の予定などを生徒たちに話しているところだった。  愛美たちは、教室の後ろから父母たちの間を抜けて、こっそり席に着こうとした。 「こらっ!そこの二人。入学そうそうどこに行っていたっ!」 「あちゃ―」  見つからない方がおかしいのだが、あっという間にクラスの注目を浴びてしまった。  愛美は、ちょっと恥ずかしそうに、 「トイレ…」と言った。  クラスの生徒は、どっと笑った。 「そんな長いトイレがあるかっ!」と担任は声を荒立てて怒って見せた。  愛美は、仕方なく開き直ったように、 「先生、女の子には色々あるんですよ―」と明るく言ってのけたので、生徒たちだけではなく周りの父母たちまで、どっと笑いだした。  担任はあきれながら、 「もういい、早く席に着け」と二人を着席させた。  担任の話は、それから、まもなく終わり、愛実たちは帰ろうと振り返ったとき、廊下からこちらを見ている栄二郎と文枝に気がついた。 「あちゃ―」  そして、麗子もビデオカメラを持っている両親に気づいた。  二人は、それぞれ、神妙に近づき、 「何やっとるんだ。お前は、入学早々!」  麗子の父親のけんまくが聞こえる。 「ま―ま―、元気な娘でよかったじゃん!」と麗子の声。  愛美は、愛美で、 「よく来たね。何も言わないんだもんっ」 「ちょっとな。でも、来てよかったよ。思わぬところでアミの晴れ舞台が見れたよ」 「いえっ、あれはですね。先生が是非弾いて欲しいと頼まれましてねっ!」 「いい演奏だった…」 「そうでしょう。あのピアノ最初、聴いたときからおかしいと思ってたのよ。それで、弾いてみてびっくり、鍵盤が指に張りつくみたいに軽いの。そのくせ、音は普通のピアノの二倍三倍くらい大きく響くのよ。あんなピアノ初めて…とてもこの世のものとは思えなかったわ」  愛美がいつのまにか興奮して話し出すと、 「俊之介や真理さんにも見せてやりたかったよ」  栄二郎はぼそっと呟いて、文枝の顔を見た。文枝は目を細めてほほ笑んでいた。  愛実は小学校の音楽会でもピアノは弾かなかった。今日のような大観衆の前で弾いたのは生まれて初めてのことだった。 「そうね…。じゃ―帰りましょう!」と愛美は先頭をきって歩き出した。 「来てくれてありがとう…」  愛実は、二人に背を向けながら小声で囁いた。 「いやっ、これからは、ちょくちょく様子を見にこよう。いいものが見れそうだっ」  その言葉に、愛美は急に振り返り、 「だから、いつもはちゃんとお淑やかに、いい子にしてるってば!」  ぜんぜん説得力のない愛美の言葉だった。 「アミ、一緒に帰ろう―」  麗子が、駆けてきて愛美の手を取った。 「おじいちゃんおばあちゃん先行ってるわよ―」と二人は逃げるようにして、その場を去った。 「だんだん手に負えなくなりますよ…」  麗子の父親が栄二郎に愚痴をいった。 「いやっ、まだまだ子供ですよ。先が楽しみじゃ―ないですか」  栄二郎は、嬉しそうに、駆けて行く二人を見ながら微笑むだけだった。   (寂しい夜)  その夜になって、山の手のお婆さんと恵美が入学祝をかねて泊りでやってきた。  山の手のお婆さんこと野口菊恵は、愛美の母の母であり、その娘の恵美は、愛美の母の妹にあたる間柄だ。  そして愛美にとて恵美は、亡くなった母の四つ違いの妹であったおかげで、まさしく母の代わりであり、愛美のピアノの先生でもあった。  菊恵は当年とって六十五歳で、某音楽大学の理事の一人であり、愛美の母も、この大学を背負って立つ世界一のピアニストになるはずだった。あの事故さえなければ…  そして、真理の代わりに恵美を据えようと菊恵は考えているが、恵美はさっぱりその気がないようで、現在三十路まじかになってもフリーのピアニストで気ままな生活をしている。 「そうかい。私も聴きたかったよ。よりによって今日なんかに理事会をやらなくてもね―」  菊恵は、さっそく栄二郎から、今朝の入学式の騒動を聞かされた。 「真理が生きていたら、どんなにか喜んだことか」  菊恵は、またも目頭を熱くして涙ぐんでいた。 「おばあちゃん、さっきから泣いてばっかり―」 「そうかい、爺さんもいっちゃたし。今は恵美と二人きりで寂しくて、涙もろくなちゃったんだよ。早く婿でももらって、孫でもいてくれたら、にぎやかでいいんだけどね―」 「お母さん、私のせいにしないでよね―」と突然、結婚話が出たので、恵美は焦って言い返した。 「そうだね。恵美ちゃんは、いい人いないのかい?」  栄二郎まで、菊恵に合せて恵美をはやしたてた。 「お姉さん、結婚しちゃだめ。いつまででも私のお母さんでいてくれなきゃ―」  愛美だけは、心配そうに恵美に抱きついた。 「わ―大変、このままだったら嫁かず後家になちゃうわっ!」 「そしたら、私が面倒みてあげる―」 「ありがとう。期待してるわよっ!」  それを聞いて、菊恵は、 「真理もよくそう言って私を喜ばせてくれたけど。それが、好きな人が出来たら、私のことはそっちのけで出ていってしまったよ…」 「アミも、わからないわねっ?」  恵美は抱き付いて甘えている愛美を眺めた。 「へぇへぇへっ―」と愛美は舌を出して目をそらした。 「じゃ―、今朝の名演奏を聴かせてもらおうかね」と菊恵は愛美に言った。 「え―、おばあちゃん。さっきピアノの練習したばっかりよ。今日は、みんな大変だったから、早くお風呂に入って寝ましょう。ピアノは明日ねっ!」  愛美はさっさとその場をまとめた。 「アミ、じゃ―ないけど、お疲れでしょう。お風呂、先にどうぞ…」  文枝が菊恵をお風呂に誘った。 「そうだね。明日たっぷり聴かせてもらおうかね」  久ぶりに、にぎやかで、そしてちょぴり寂しい、夜は更けていった。   (恵美と愛実)  愛美の部屋は、この母屋の二階部分すべてであり、そこは俊之介と真理が結婚したときに増改築された二人の新居だった。  それゆえに、二階の部分は広く、二十畳くらいのリビングに、大きなダブルベット。それにバス・トイレ・レストルーム・小さなキッチンまで備えられていた。  そして、今もこの部屋は二人がパリに出かけた日のままに保たれていた。  当たり前の話だが、愛美は一人この部屋を自由に使っていた。 そして恵美がこの家に泊まるときには、愛美が小さなときから、大きなダブルベットで一緒に寝ることにしていた。愛美一人では、この部屋はあまりにも寂しすぎると思ていのかもしれない。  愛美にとっても母の温もりを感じさせる恵美は、母そのものだった。  しかし愛美が成長した今でも、一緒のベットで寝ているくらいだから、恵美は愛実にとって母以上の存在になっていた。  恵美は、今日も風呂上がりの濡れた髪をタオルで乾かしながら、二階の愛美の部屋に上がってきた。  愛美は、すでにパジャマに着替えて、ベットの中に入っている。 「アミ、早くお風呂、入んな。まだでしょう?」  恵美は、そう言うと、鏡台の前に座りドライヤーとタオルで髪を乾かし始めた。  ドライヤーの音が、静かだった部屋にこだました。 「…、もう入った」  愛実の返事。でもそのあと、いきなり恵美の背中からお腹に手を回して愛美が抱きついてきた。 「お姉さん、いいでしょう。あれやって―え?」  愛美は甘えた声で、恵美に迫った。  あれとは、ここ最近恵美が泊まりに来るたびに、何かにつけおねだりして迫っていることだった。 「駄目よ。そんな…、とても出来ないわ」 「どうして、女同士じゃない…」  愛美は、お腹に回していた手で恵美のパジャマのボタンを外そうとした。 「だ―めっ!」  恵美は、ドライヤーを持ちながら、慌てて脇を締めて愛美の手を押さえた。 「恵美お姉さん…」  愛美は抱きついたまま、も一度、甘い声を出して囁く。 愛実は、恵美の体の柔らかな感触が、自分の体をむずかせて、ほてってくるのを気持ちよく感じていた。 「う―んっ、アミちゃんだって裸になって見られたら恥ずかしいでしょう?」 「そんなことないわ。お姉さんなら、ぜんぜん平気よ!」 「それなら、見せてちょ―うだい!」 「いいわよっ!」  愛美は、恵美から離れて、部屋の中央まで下がった。  恵美は、そのまま回転椅子を回して、愛美と向かい合った。 「さ―あっ、脱いで見せて―!」 「いいわよ。お姉さん、いつも見てるじゃない…」  愛美は、そう言いながらも、突っ立ったまんま動かなかった。 「見えると見せるのでは、ぜんぜん違うわよ。さ―あ、見せてごらんなさいっ!」 「いいわよっ!」  けしかける恵美に、そう言ったものの、やはりじっと見られていると意識してしまい恥ずかしい。  しかし、これでひるんでは恵美の思うつぼ。愛実が恥ずかしさで、裸になれないことを見透かしている。  愛美はお姉さんだから大丈夫と、心の中で何回も呟きながら、パジャマのボタンを一つずつ外した。それで、勢いよく一、二の三で大きく上着を開らいた。 「ど―うっ、…?」 「う―んっ、なるほどなるほど、それから?」  恵美は、愛美をじっと見据えてから言った。  愛美はゆっくり上着を脱ぎ、ベットの上に投げた。そして、ズボンとパンツを、両方に手をかけ、少しためらってから、「えい、やー」と一気にくるぶしまで下した。そして、してやったりと恵美の顔を見ながら、足先を使ってパジャマとパンツを脱ぎ捨てた。 「ど―うっ……」  愛美は、誇らしげに、右足を少し前に出して腰に手を当てて胸を張った。 「う―うっ、なかなかいいわよ。かわいいわ…」 「今度は、お姉さんの番よ!」  愛美の心臓はどきどきしていた。 「まさか本当に脱ぐとは思わなかったな―」と恵美の心臓もどきどきしていた。 「こんなこと、たいしたことじゃ―ないじゃん。お姉さんの番よ!」  愛美は強がって言った。 「う―うっ、…そうね。アミちゃんに先に脱がれちゃったらしょうがないわね―」  恵美は、覚悟を決めたのか持っていたドライヤーを置くと、裸の愛美を見ながら、パジャマの上着とズボンをすばやく脱いで愛実の前に立った。  「ど―うっ、…脱いだわよ!」  愛美とは比べようがない、大人の体がそこにあった。 「お姉さん。凄く奇麗よ…」 「アミちゃん、こそ…」  お互いを誉めあいながら恵美は、愛美を鏡台の方え突き放した。 「しょうがないな―。さ―あ、どうすればいいの?」 「本当っ!モデルやってくれるの?」 「も―うっ、脱いじゃってるから、そう言うことね」 「お姉さん、ありがとう!」  愛美は裸のまま、恵美の気持ちが変わらないうちに、急いでイーゼルと椅子とキャンバスを恵美の前に用意した。 「取りあえず、立ち姿。そのままでいいわ」 「このまま立っているの?」 「そうよ。力抜いてね。自然にね」 「何か、疲れるわ」 「そうよ、モデルの仕事は大変なのよ」  愛美は、わかったようなことを言いながらスケッチを始めた。 「でも、私まで裸になるとは思わなかったけど」  愛美は、宿願だった恵美の裸婦が描けるとあって、最高の入学祝いになったと思っていた。 「でも、アミちゃん。どうしてまた、裸が描きたいの。男子なら興味を持っても不思議ではないけど」 「でも私、女でよかった。男だったらお姉さん絶対に脱がなかったでしょう―?」 「わからないよ。いい男だったら、その気になちゃうかもよ―」 「え―お姉さん、その気って何の気?」 「そんなことより、どうして裸が描きたいの?」  愛美は少し真面目な顔で答えた。 「最初は、レイをモデルにして描いていたんだけどね―」 「え、あなたたち、あれからずっと、あんなことして描いていたの?」 恵美は驚きながら、目線を愛実の少し膨らんだ胸に向けた。 (絵を描く理由)  あれは愛実が小学校四年生の夏休みのことだった。 抜けるような青空と暑い太陽、こんな日は、庭にビニールプールを出して、水着も着けないで、裸になって遊ぶ、それが愛実と麗子の幼い時からの日課だった。  この日も、縁側の廊下に服を脱ぎ散らかして、水遊びにはしゃいでいた。  最初に言ったのは麗子だった。 「アミちゃん。ヌードモデルやって、私描いてあげるから」 「いいわよ―」  多分、テレビで見聞きしたヌードという言葉に好奇心を掻き立たせる響きがあって、麗子の最近のお気に入りの言葉だった。  愛実はビニールプールの真ん中に立って、口元と腰に手を当ててポーズをとった。 「アミちゃんビーナスみたい」  これもテレビで見たことがあるボッティチェリ、の「ビーナス誕生」を思い浮かべた。  そして、廊下に散らかっているスケッチブックと色鉛筆を拾い集めて描き始めた。  でも愛実は十分も立っていると、 「もう、疲れた。こんど私の番!」 「え―え、まだ描けてないよー」  愛実は麗子をさっさとプールの方に押しやった。  麗子は仕方なくプールの真ん中で愛実と同じポーズをとって見せた。  愛実が麗子の体の輪郭を追っていたとき、愛実の体の中にもう一人の麗子が作られていくような不思議な感動に包まれていた。 「ピアノと同じだ」  愛実は呟いた。  それから、しばらくして恵美が何時ものように泊りがけで、愛実にピアノを教えにやってきた。 その夜、何時ものように愛実の部屋で一緒に寝ようと二階の愛実の部屋に上がってきたときのこと、机の上に色鉛筆で描かれた麗子の裸婦に目を止めた。 「え―、上手ね!こんな描き方、誰に習ったの?」  その絵は、子供が普通に描く、色を塗りつぶすだけの描き方ではなく、色鉛筆の色を薄く使い、下地の白を生かして濃淡を使い分る高等技法を使った絵だった。 「レイよ!レイは、お母さんから教えてもらったって言ってたわ」 「上手よ。レイの感じがよく出ているから」  もうベットに入っていた愛実も恵美の横まで来て一緒に眺めた。 「レイの方が私より上手よ。あの子何でも丁寧だから」 「レイちゃんは、どんな絵を描くの?」 「それと同じよ。モデル、代わりばんこで描いたんだから」 「も―、何やってるんだか、他に描くものないの?花とか風景とか」 「え、え、ヌードじゃいけないの?」  恵美は口ごもってしまった。 「お姉さんも描いてあげる。早く服、脱いで」 「だめだめ、そんなの恥ずかしくって、とてもできない」  恵美は慌てて愛実から離れて、ベットに飛び込んだ。 「え、恥ずかしくないよ―」  愛実もベットに飛び込んで、仰向けに寝ていた恵美の胸にしがみついた。恵美はたまらず愛実を横に寝かせ、手枕をしながら愛実の体を抱き寄せた。  愛実はすかさず、恵美のパジャマのボタンを外して大きく露出した胸の乳首をしゃぶりだした。愛実の小さい時からの何時もの習慣だった。  恵美は、愛実がまだ小さいとき、母親のおっぱいの味も知らないで成長するのは不便だと思い、お乳こそ出ないが、愛実に自分の乳首を吸わせた。それが良かったのか悪かったのか、小学四年生になっても、寝るときには恵美の乳首を口に入れながら眠る。  毎日、愛実のそばにいてやれないことへの罪滅ぼしなのか、泊まりに来たときくらいは、愛実の気のすむままに、乳首を吸わせてあげようと思っていた。  それが愛実にとっても、なぜか心が落ち着き、すぐに眠りにつくことができた。 「もう、赤ちゃんね―」  恵美はそう呟きながらも、それが母性なのか、趣味なのか、乳首をしゃぶる愛実が愛おしく、恵美も気持ちよく感じていた。心も体も穏やかにさせてくれる。 「アミ、油絵教えてあげましょうか?」  恵美は天井を見ながら呟いた。 「油絵?」  愛実は乳首を離して、恵美の横顔を見た。 「絵を描くのもピアノと同じなのよ。ピアノは音で風景や人の心を描くでしょう。絵は色を使って風景や人物を描く。でも、そこに描かれているものは、やっぱり心なのよ。山や木の心、人物の心。きっとピアノの演奏にも役に立つと思うから」 「お姉さん、わかるわ。レイを描いていたとき、私の体の中にレイがいたのよ。すごっく嬉しかった。それでもっと描きたいって思ったわ」 「本当にレイちゃんが好きなのね」 「お姉さんも大好きだよ!」  それだけ言うと愛実は、また乳首を口に入れ、今度はわざと口の奥まで入れてしゃぶった。 「う、う、うー、そんな、こと…」 恵美の口元が少し緩んだ。  それから一週間たったころ、恵美が学生時代に使っていた油絵の道具一式が宅配便で送られてきた。  その日の夜、愛実と麗子と恵美、三人は愛実の部屋にいた。  恵美は真新しい一〇号のキャンバスをイーゼルに掛けた。 「レイ、モデルやって―」  愛実が言うと、何のためらいもなく、麗子は服をいきよいよく脱ぎ捨てて、キャンバスの前に立った。 「どんなポーズがいい?」  麗子は、足を組んだり、横を向いたり、色々ポーズをとって見せた。 「レ、レイちゃん、ありがとう。でも最初は練習だから、リンゴとかミカンとか静物にしようかと思って果物、色々持って来たんだけど」 「え―、お姉さん。私、レイのヌード描きたい。何時も二人で描いているのよ」 「そ、そうね―、もう服、脱いじゃってるしね。でも、疲れるわよ」  その時、麗子の元気な発言。 「大丈夫だよ。代わり番こにやるから」  それを聞いて恵美は、さっきの脱ぎっぷりのいい麗子を見て、前に愛実から聞いた二人でヌードを描いているという話を思い出した。 「じゃあ、レイちゃんベッドに腰かけて、疲れないようにね」  それはムンクの「思春期」に似ていて、恵美は麗子の美しさに息をのんだ。  女の子は年齢に関係なく大人の美しさを持っているんだな、と思った。  恵美も、眠っていた想作意欲がふつふつと涌いて出てくるのを感じて、でも今日はそれを両手で抑え込んだ。  愛実に下絵からお汁描きまで進めたところで、麗子と交代した。 「じゃあ、今度はレイちゃん」  麗子は勇んでベッドから飛び出し、 「わたし、アミの服、脱がす!」  麗子は愛実のTシャツをめくりあげ、短パンとパンツを一緒に、床に膝を付きながら引きずりおろした。そして膝をついたまま愛実の体に、ぎゅっと頬を付けて抱き着いた。 「アミの体気持ちいい」  麗子はこれが好きだった。  愛実も脱がされることに取り分け抵抗もなく、慣れている様子で、麗子の前に膝を付いて背中を優しく抱き寄せた。 「レイちゃんの裸、気持ちいい」 「レイちゃん、レイちゃん、そういう楽しいことはそれくらいで」  恵美は麗子の行く末を不安に思いながらキャンバスの前に呼んだ。 「わたし、油絵描けるよ。お母さんに教えてもらったから。お母さん油絵、趣味だから」  なるほど麗子は、一人で手際よく筆を進めた。 「よくお母さんのモデルやるの?」  恵美は教えることが無さそうなので、手持ちぶささに訊いてみた。 「そうなの、お母さん、私を描くのが好きなのよ」  こんな可愛い娘、絵心のある人なら描きたくならない訳はない。 「裸で?」 「お母さんのときは、服着てるよ」  恵美は、麗子の愛実に負けず劣らずの創造力と感受性は母親の絵の手ほどきから養われたものではないかと感じた。  麗子も筆を進めながら話を続けた。 「お母さん、美大出身で、デパートの展示室でグループ展を開いたときに、デパートの係の人がお父さんで、それで親しくなって結婚したんだって」 「そうだったの。いいわねー」  娘に親の馴れ初めを話す麗子と母のおおらかで楽しそうな会話が見えるようだった。 (一つになること) 「どうして、裸が描きたいの」  恵美はもう一度、愛実に尋ねた。 「特に裸でなくてもいいんだけどね。美しいものが描きたいの。それと美しいい心。飾らない心って言ってもいいわ」 「それが、裸なのね。確かに飾らないといえば裸ね。でも美しい人は服を着ると、より美しくなるわよ」  恵美はまだ愛実の意図が分からなかった。 「それは、そうなんだけれどね。絵を描いていると、自分の心の中に描いている人の姿とか心とかが入ってきちゃうのよ。感情移入っていうやつじゃないかな。絵を描きながら、体の中にもう一人のお姉さんを作り出すような、私の体の中に住んでもらうような感じ」 「絵と体の一体感ね。楽曲と演奏者の一体感みたいな感じなのね」 「そうそう、そんな感じ。楽曲の場合は音そのものじゃない。音って、きっと裸なのよ。だからとても素直に音の心を感じられて、体の中に入ってくる。絵も描いているものが裸でないと、私の中に入ってこれないんじゃないかな、服が邪魔をして、特に心は見えなくなる」 「それはただの思い込みじゃないの。私の心の中には何時もアミちゃんがいるわよ」 「でも、ちょっと違う感じ、私もレイを描くまでは気が付かなかったけど、普段思っているよりも、もっともっと身近に感じて、自分がレイになったくらいの気持ちなの。さっきの喩で言えば、好きな楽曲を聴くのと演奏することの違いかな」 「じゃ、私も今度アミちゃんのヌード描いてみようかな。アミちゃんの裸見てたら描きたくなっちゃった」 「もちろんいいわよ。代わりばんこにモデルやりましょう」 「そうねーでも、わりと確りした考えをもって描いているのね」 「考えだけで描ければいいんだけどね。やっぱりそれよりも人の体って難しいと思うわ。花や果物なんかは、それなりに感じよく描けるんだけど、人間の顔って不思議よね。よ―く見て、そのとおりに描くんだけど、似ないのよ。と言うより、形がないのかもしれない。あるようでないような不思議な物体。最近、ようやくデッサンが整ってきたけど。でも、今度はその不思議な物体から表情をつけないと、マネキンみたいな、お人形さんみたいになっちゃうでしょう。それがまた、一苦労なの。線一本、影一つで、ぜんぜん心が違っちゃう感じ!」  愛美は、その時の苦心を思い出しながら話した。 「それなら、服を着ててもいいじゃない?」  無駄に脱がされたのではないかと、恵美は怒って見せた。 「単なる似顔絵ならそれで終わりなんだけど、一人の人間として見ようとすると、服はやっぱり嘘っぽい感じ」 「服で体をごまかすって言うこと?」 「ごまかすって言うより、人間の方が服に影響されちゃう感じ…」 「う―ん、制服効果っていうやつね。感じわかるわ」 「…、でしょう!」 「だから、裸になったときの人間って、わりと素直な心が体にも顔にも出るんじゃないかな―?」  愛美は、自分に言い聞かせるように、キャンバスに向かって描き続けた。  恵美は、感心しながら絵の出来上がりが楽しみになってきた。 「でも、それもあるけど、やっぱり女の人の体って美しいと思うわ。それに、体も顔と同じように、形が捕らえにくいのよ。もしかしたら、顔よりも表情が浅いだけ、その気持ちをあらわすとしたら百倍難しいかも知れないわ―」 「でも、アミちゃんは、人それぞれの飾らない個性を描きたいのね。裸の心を…」 「そうね。ちゃんと描ければいいんだけど。まだ実力が足りませ―ん!」 「何人ぐらい描いたの?」 「まだ、レイちゃんとお姉さんだけよ!」 「あらま―あっ、たった二人…」 「だ―って、みんな脱いでくれないもん!」 「それで、私が犠牲者に選ばれたのね」 「光栄でしょう―」  愛美は新しいモデルを得て満足げである。 「何か、実験台に乗せられている気分…」 「でも、心配しないで。モデルはレイしか描いたことないけど、レイの絵は百枚ぐらい描いたから。少しは実力あるわよっ!」 「レイちゃんも大変ね」 「私も、大変よ。レイをモデルにするときは、私もモデルやってあげるものー」 「じゃ―この状態と同じじゃ―ない!」 「そうよー、でも最近レイが絵を描くのが面倒くさくなっちゃったみたいで、今は私の専属モデルだけど…」 「それなら、私がやらなくても、いいじゃない?」 「でも、この春休みに拒絶されちゃって……」 「はは―んっ、無理やり襲ったな!」 「へへ―っ、襲ったわけじゃ―ないけど。レイが意識しはじめちゃったみたいで、胸もだいぶ大きく膨らんできたから、年頃になってきたということかな」 「そうよね。恥ずかしくないほうがおかしいのよね」 「私、ぜんぜん平気よ」 「それは、アミちゃんがまだ子供だからよ」 「そうかな?」  それからも二人の会話は、尽きなかった。   (セラミックスのピアノ)  翌日。愛美は奇跡的に学校にいた。  普通なら朝まで絵筆をはなさない愛美だが、恵美が今日もモデルをやってくれると約束したので、午前三時には二人して抱きあって寝たのだった。  しかし、春の陽気に誘われて、心もそぞろで眠たい愛美だ。 「アミ、眠たそうね。また、朝まで絵を描いていたの?」  愛美は、机の上に頭をつけて寝ころんだまま、 「ま―ね…。でも、描いていたのは三時まで、後は寝たんだけど。でも、偉いでしょう。学校に来てるんだから…」 「うんっ、偉い偉い。さっすが中学生っ!」  麗子は、寝ている愛美の頭をなぜながら、机の上に散らばっている髪の毛を整えた。  そこに、先ほどのホームルームで、委員長になった中山正美がやってきた。 「レイちゃん。あなたピアノ上手でしょう?」 「上手と言われるほどでもないけど…」 「私、知ってるわよ。小学校の時から、音楽会でもずっと聴いていたもの。でも、なかなか同じクラスにならなくって話す機会がなかったの―」 「気にしないで、いつでも話してくれればよかったのに、正美ちゃんもピアノ弾くの?」 「私は、ぜんぜん途中で挫折したわ。だから、ピアノを弾ける人がうらやましくって」 「なにいってんのよ!今からでも遅くないよ。もう一度挑戦してみたら?」 「もう―だめよ。時間がないの。塾で…」 「なるほど。ピアノが入試にあるのは音楽科だけだからね―」 「でも私、詩を書くのよ。ポーエム…」 「へ―えっ、なかなか文学少女ね―」 「だから、よかったら作曲して欲しいと思って?」 「な―だっ、そんなこと、つまらん!」 「レイちゃん。作曲とかしないの?」  正美は、麗子が作曲に興味を示さなかったことで、がっかりした顔を見せた。 「作曲、面倒くさいっ。それならアミの領分ね!」 「アミちゃんも、ピアノ弾くの―?」  正美が呼ぶと、愛実はむくむくっと眠たそうな顔を持ち上げた。 「私、ピアノ嫌い…」  ほとんど上の空、それを聞いて麗子は、 「なにいってんのよ。それ、詩集…」  正美の胸に抱きしめている本を指差した。 「そうなの、私が書いた詩集なの―」  正美は、麗子に差し出した。  それは、白地のサイン帳らしく、カラーペンや色鉛筆で、色鮮やかにイラストもまじえて書かれていた。 「わ―あっ、かわいい。わりと、正美ってこまめね」  かわいいと言う言葉に引かれて愛実も、 「私も見ていい?」と正美に訊ねた。 「もちろんよ!」  麗子は、愛実に詩集を渡した。 「アミちゃんも、詩を書くの?」 「詩は書かないけど、絵を描くわ―」 「絵って、絵画。日本画とか、洋画とか?」 「そうよ。私は油絵だけど…」 「なにいってんのよ!アミはね、本物のピアニストなのよ!」  麗子がじれったそうに叫んだ。 「ピアノも弾くの?」 「少しはね…」 「よく言うよ、このかまととが!」 「レイ、ちょっと言葉の使い方が違うんじゃない」 「同じようなものよ」  麗子はいつも脈脱のない言葉を、その時の雰囲気で喋ってしまう癖があった。麗子が続けて、話を進めた。 「正美、今日の昼休み、暇!」 「そうね。別に何もないけど…」 「じゃ―あ、一緒に体育館に行かない。アミの正体を教えてあげるから…」 「レイ、大げさよ。でも、正美ちゃんもおいでよ。いい詩も見つかったから。曲をつけてあげるわ―」  愛実は、そろそろ授業だと思い、自分で長い髪をゴムで縛りながら正美に言った。 「ほんと!」 「もちろんよ。それから、ちょっとこの詩集貸してね。後でよく読んでみたいから―」 「いいわよ。よく読んで!」  その日の昼休み。  昨日、弾いた不思議なピアノに、もう一度逢いたくて、さっそく愛美たちが体育館にやってきた。 「あれっ、先客…」  体育館に入ったその瞬間、すさまじいピアノの連打の響きが愛美たちを迎えた。 「アミ、変よ!体育館が揺れているわ」 「違うわ。地震よ!」  麗子と正美が叫んだ。  三人は思わず肩を寄せ合い、お互いにお互いを支えあった。  しかし、それは火山の爆発に似て紅蓮の炎を映し出していた。  円錐状に広がった山の峰から、地響きと共に天まで届くような勢いで火柱が上がっていた。その噴火口からは、赤々とした溶岩がどろどろと流れ出している。その噴火の照り返しの中、黒いマントを着た男たちが銀の杯を持って酒盛りをしている。気がつくと愛実たちは、その酒盛りの中にいた。 まさしくここは、魔王たちが集うというはげ山の一夜に違いないと愛実は直感した。  愛実は、一人立って叫んだ。 「先生!」  あたりは、静寂の中いつもの体育館の風景が戻った。 「きっと、昨日の先生よ」  愛実が、誰に言うともなく呟いた。  その期待通りに、弾いていたのは昨日の青年教師だった。彼は、愛美たちに気づくと、手招きをして三人を呼んだ。 「待っていたんだよ。必ず来ると思っていたよ」 「先生、凄い響き。どこまでこのピアノ響くんですか。こんな爆発するようなピアノ、聴いたことないです」  愛美は、彼の演奏に圧倒されてしまっていた。 「先生、あれはげ山の一夜でしょう。悪魔に食べられてしまうかと思ったわ」  麗子も、幻を見たように話しながら、愛実たちに同意を求めた。 「それは、ひどいな―。でも、そんなふうに聴いてもらえたら嬉しいよ。この曲は、ムソルグスキーの交響詩『はげ山の一夜』をピアノで弾けるようにアレンジしていたところなんだ。夏の演奏会で披露しようかと思ってね」 「先生!すごい迫力だった。オーケストラでもあんな迫力出せないかもしれない」  愛実はとても真似ができないと思い、少し落胆しながら尊敬の眼差しで先生を見ていた。 「でも、僕には昨日の君の演奏が、月あかりの下で、満開に咲く桜の森の中にいる気分だったよ。それでまた、君のピアノが聴きたくて、待っていたんだよ」 「私なんて、ぜんぜん先生みたいには弾けません」  愛美は、生まれて始めて、自分にはかなわないと思えるピアニスとに出会った。 「強い音というのは、ごまかしやすいもので、力さえあれば誰にでも出来るのさ。でも、柔らな人の心に響く音というのは、やはり才能かな。先生でも、君のようには弾けないよ」 「そんなこと、ないです。先生のピアノ、私の心に響きました」  愛美は、正直に言った。  小笠原氏は、愛美たちを舞台の上に招いた。  愛美たちは、昨日とは違って階段を使わずにそのまま舞台によじ登った。  小笠原氏は、愛美にピアノの席を譲りながら、 「昨日のソナタを、もう一度聴かせてくれないかね」 「いいですよっ!」  愛美は、心を落ち着けてから、鍵盤の指をゆっくり走らせた。  しかし、愛美の演奏が始まって、すぐに彼の声がかかって、演奏を止めた。 「ごめんごめん、さっきの僕の演奏が影響してしまったようだね」  愛美は、彼に言われるまでもなく、昨日とは違う響きに戸惑っていた。  麗子と正美には、何が何だかわからなかった。 「このピアノは、普通のピアノとは違うんだ。実は、僕が設計して開発したセラミックス・ピアノなんだよ」 「セラミックス…」  愛美は、その言葉はよく知っていた。しかし、このピアノがセラミックスで出来ているとは思えなかった。 「最近になって、隣の会社でセラミックの焼きなまし技術が成熟してきて、堅くて壊れやすいというセラミックから、粘りを持って割れにくいセラミックが出来るようになってきて…」 「それじゃ、より金属に近くなってきたんですね」  麗子が、興味心身でピアノの中を覗き込んだ。 「まだ、金属ほどの柔らかさはないけどね。でも、叩くといい音が出たんだ。それで、元々楽器会社なんだから、取りあえずこれでピアノを作ろうということになったのだが、なかなかうまくいかない。それで、弦とフレームと可動部分はセラミックなんだが、外回りは普通のピアノを使った。将来は、オールセラミックスを考えているのだけどね」 「先生。そんなことは、ないですよ。私の家のピアノより弾きやすいですよ!」  愛美が軽く鍵盤に指を走らせて音を響かせた。 「それは、君がこのピアノの性能に負けないくらいの技量があるからなんだ。しかし、さっきみたいに少しでも、心が乱れたり、体が硬かったりすると、このピアノは綺麗に響いてはくれない。かと言って、甘くセッティングすれば、普通のピアノよりも響かなくなる。これでは商品にはならないね」 小笠原氏は、セラミックス・ピアノの特徴を、愛美たちに詳しく説明した。 「先生。私も弾いていい?」  それを聴いて麗子も一度弾いてみたいと思った。 「いいとも、弾いてごらん」  愛美は、それを聞くと、麗子に席を譲った。  麗子は、軽くモーツァルトを引き出したが、その手応えのない軽さと、バラバラな和音にお手上げになった。 「先生、だめよこれ、響きすぎて、タッチの方が速くなっちゃうわ!」 と麗子は愛美に席を譲りながら愚痴った。 「レイ、違うのよ。ちゃんとした和音が出来ていないと、濁った残響音が邪魔しているの…」  愛美は麗子のピアノを聴いて、改めてセラミックス・ピアノの難しさを教えられた感じがした。 「そんな私、いつものように弾いていたのに…?」 「だから、普通のピアノと思って弾いてはダメなのよ」  愛美の顔は、いつになく険しくなった。 「そうなんだ。普通のピアノに比べれば、音の大きさは、三倍から四倍。音の立ち上がりは極めて速く、振幅も長い。そして、軽い鍵盤。それに、短いストロークの中で音の強弱は、鍵圧そのままで響く。まさしく、理想のピアノなんだけどね。しかし、それを八十八鍵、音楽として統一させることは、人間業ではないようだ」  小笠原氏は、自分の子供のできの悪さを嘆くように話した。 「でも、もしそれが出来たなら、このピアノは人の歌声のように、リコーダーやフォルンのように、演奏者の心のままに音が出せる……素晴らしいわ!」  愛美は、そう言うと、もう一度ピアノに向かってから、静かに目を閉じた。  静寂と沈黙がしばらく続いてから、愛美はゆっくりと鍵盤に指を置いた。  そして、目を開けて、柔らかく柔らかくなでるような愛美の演奏が始まった。  愛美は、ピアノを弾くというよりも、ピアノの響きに体を預けるように、ただソナタの心だけを思い浮かべた。 「う―ん、いいよ。こんなに美しいソナタは始めて聴いたよ。やはり、このピアノは完成されていたのか」  小笠原氏は呟いた。 「先生、どう言うこと?」  麗子が、不思議そうに尋ねた。 「実は、なにぶんにも、セラミックス・ピアノは世界でこれ一台しかないのだよ。だから、どこまで従来のピアノに迫れるか、そして、追い越せるかが課題だった。大部分は従来のピアノ以上の性能を発揮してくれたのだが、ただ一つ、セラミックの性質からか、柔らかな極めて弱い音が出せないと思っていたのさ。しかし、それは弾き手の方が未熟だったことが、彼女の演奏でわかったよ。僕が今日、君たちを待っていたのは、それをもう一度確かめたかったというわけだ」 「先生。そんなことないですよ。私には、先生のような切れのいい力強さが出せません」  愛美は、まだ最初聴いた彼の演奏が体の中で生きていた。 「多分それは、体格的な問題だろう。これから成長すれば、僕よりもいい音を響かせるはずだっ」 「ほんとですか?」  愛美は、そんな単純な違いで演奏が左右されるとは思えなかった。 「でも、先生は今の君の演奏が好きだな。それに、このセラミックス・ピアノは、普通のピアノに比べれば、三倍四倍の大きな音が出せるから、ちょうど君の小さな体格を補ってあまるほどの演奏になっているはずだよ」 「それでこのピアノを弾くと上手くなったような感じがするのね―」 「私、上手く弾けなかった……」  麗子が、不満そうに二人の顔を見比べていた。 「大丈夫、君も練習すれば、きっとセラミックス・ピアノを弾くコツがわかってくると思うよ」  彼は麗子にも、やさしく励ました。 「時間がかかりそうね―」  麗子はため息交じりで肩を落としながら呟いた。 「でも、先生。そんな難しいピアノだったら、やっぱり商品にはなりませんよ」  正美が完成されたピアノと言った言葉に不安を持った。 「そうだね。これで満足しないで、もっと誰にでも弾けるピアノを目指すよ」  正美の意見にも誠実に耳をかした。 「そうだ、君たち一年生なんだろ。オーケストラ部に入らないか。僕が顧問をしているんだけど…」  小笠原氏は、本当はそれが目的だったのかも知れないと愛実たちは思った。 「残念。私もアミも陸上部に入ることになっているんです。取りあえず体を作るように言われているから…」と麗子が愛実より先に、愛実の分まで断ってしまった。 「そうか、残念。でも、時々でいいから、一緒に演奏したいものだね」 「先生、本当ですか?是非、演奏させて下さい。私、まだオーケストラと協奏したことないんです」  愛実は、飛びあがって喜んだ。 「それは、ありがたい。是非一緒に演奏しよう。名前は、アミちゃんと、レイちゃんかな?」  三人は、自己紹介も済ませないうちに、すっかり打ち解けていたことに気がついた。 「私が萩尾麗子。そして、古賀愛美と委員長の 中山正美です」と麗子が紹介した。 「私が、音楽科主任の小笠原清です」 「えっ、あの有名な小笠原清…先生!」と正美が大きな声で叫んだ。  愛美と麗子には、その名前を知らなかった。 「正美ちゃん。どういう人?」と麗子が耳打ちした。 「世界的に有名なピアニストよ。CDレコードも何枚かあるわ。私、前にプラザホールのリサイタルに行ったことがあります!」 「それは、どうもありがとう」 「どうりで、けたはずれに上手いわけだっ!」  麗子も、愛美も小笠原氏をしらじらと見ながら、昨日の謎がようやく解けた思いだった。 「それより、愛美君にセラミックス・ピアノの鍵をあげよう。それと、体育館の鍵もだ。これで、いつでも、このピアノを弾ける」 「え―っ、ほんと。いいんですか?」 「いいとも、スペアーキーは、まだあるから。僕よりも、愛美君の方が、セラミックス・ピアノにあっているようだ。だから、また弾きに来てやってくれ。ピアノも喜ぶよ」 「はい、かならず!」  そして、午後の授業のチャイムが鳴った。 「正美ちゃん、ごめん。作曲の時間が無くなっちゃた。今度ね…」 「ううん、いいわよ。本物の小笠原清とお話ができたんだもの。来てよかったわ―」と正美は嬉しそうだった。  そして、この日から正美は、愛美たちと友達になった。
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