2 夏休みの冒険

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2 夏休みの冒険

 (愛実の夢)  中学生活にも慣れて、暑さも増してくれば、もう言わずと知れた夏休みだ。 「アミ、夏休みは何するの?」  正美が愛実と麗子の席までやってきた。 「もちろん、絵を描いて、描いて、描きまくるわよ。面倒な学校がなければ、朝日が昇るまで絵を描いていても、何の心配もないし。それで、小鳥のさえずりを子守歌に寝るの。それでまた夕日と共に起きて、描いて描いて描きまくるわ。もう、最高の夏休み。待ち遠しいな―」  今にも愛実は椅子に腰掛けていても踊りだすかのように、足はステップを踏んでいた。 「まるで、ドラキュラだね―」  そばにいた麗子はあきれ顔。 「いいじゃない。もう私は絵の具になるの。だから人間扱いしないでね!」 「そうは、いかないわ。夏休みでも陸上部の練習は毎日あるのよっ!」  麗子は落ち着いて言い放った。 「うそっ!信じらんない。この暑いのに、外に出たら死んじゃうじゃないっ!」  愛実は、悲痛な声を上げる。 「でしょう―。さすがに先生もわかっていらして、陸上部の練習は、朝の涼しいうちにやるそうよ」  麗子は涼しげに愛実を交わした。 「私、パス…」 「そんなものない!」 「じゃ―あ、陸上部やめる!」 「私が許さない!」 「ね―え、正美…。何とかして―」  今度は正美に泣きついて、そのまま正美の膝の上に顔を埋めた。 「ま―ま―、二人とも楽しそうね」  正美は愛実をやさしく抱き寄せながら、よしよしと背中を撫でた。 「ところで、正美は何するの?」  麗子が訊ねた。 「私、何もないのよ。だから、何かして遊ぼうと思って来たのよ」 「え―、何もないの?」  愛実は正美の膝枕から、恨めしそうに見上げた。 「確か、正美って、何か部活やっていたよね?」  麗子が改めて訊ねた。 「そう言えば、正美ってなに部だっけ?」  愛実も心もとなく訊ねる。 「放送部よっ!」と今さらに聞くなという感じで少しむくれ顔。 「え―、放送部って、部活にあるの。私、てっきり放送係がやっているのかと思った!」  正美は、ついに頭にカッチンときて、気持ちよさそうに膝枕で眠っていた愛実を払いのけた。  正美は小学校5年のときに将来の夢を、このころ一躍脚光を浴びていたテレビのシナリオ・ライターになりたいと先生に言ったことがきっかけで、それなら放送部に入らないかと言われ、正美は放送部に入った。  以後、中学になっても本人が嫌でない限り、自動的に放送部に移籍になる。つまり、放送業務と言うのは熟練が必要だった。  そのことは先生方も良く知っていて、放送部には一目置いている。また、そのことが放送部員の励みとなって、毎日の業務に誇りを持って遂行していた。 「何よ!放送係って?」  正美が嫌味っぽくいった言葉に、愛実は思いつくまま放送係を考えた。 「放送係って、朝礼の時とか、運動会とか、いるじゃん。マイク出したり、スピーカーのテストする人」 「それは全部、私たち放送部がやっているのよ」  正美は日ごろの苦労を知らない愛実に、だんだんむきになってきた。  それを感じた麗子が、 「でも、いいわよね。朝礼なんか、特等席で座っていられるんだから。放送部だけよ。先生や校長先生だって立っているのにね。私なんか、いつもうらやましくって…」  麗子に続いて愛実も、 「そうよね。考えてみれば一番いい思いをしているわよね」 「でも、それは仕方ないことだから、でもマイク出したり、アンプ出したり、結構重くて大変なのよ。それに当番制だから、いつもいつも座っていられるとは限らないから…」  正美はちょっと痛いところをつかれた思いがした。 「ね―え。私も放送部に入れて?」  愛実は目をウルウルさせながら正美にせがんだ。 「だめよ。アミなんか学校も満足に来られないくせに、放送部なんて勤まるわけないじゃない」  麗子は、鼻で笑らった。 「そうね、休まれると困るわよね。それに、朝礼の時なんか、当番の人はみんなより早く学校に来ないとだめなのよ」 「え―。朝早いの…?」 「あたりまでしょう」  麗子は正美より先に愛実をなじった。 「でも、放送部は練習ないの?」  麗子が、更に訊ねた。 「そうなの。うちの放送部、校内放送以外活動してないのよ」 「やっぱり私、絶対放送部に入る!」  夏休みに何もないと聞いて、愛実はこれしかないと思い、もう一度正美に迫った。 「なにいってんのよ!アミは体を鍛えるために陸上部に入ったんでしょう!」  麗子の叱咤が飛んだ。 「でも―、夏休みは勘弁して欲しいわよ!」  愛実は正美の手を取ったまま、麗子の顔を恨めしそうに覗き込んだ。 「そうだったの。アミちゃんて偉いのね」 「偉くない。私は嫌だって言ったのよ。でも、レイが無理やり陸上部に入れたのよ!」 「私は、てっきり陸上が好きだから入っているのかと思ったわ。でも、そう言うのって長続きしないわよっ」  正美は、愛実をかばうように、もう一度膝枕に抱き寄せた。 「だから私が、くじけないように、しっかり監督しているわけっ!」 「何よ!私は、もうくじけています―」 「なにいってんのよ!まだ夏休みは来てないのよ。くじけるのは、それからでしょう!」と麗子は愛実に言い返した。 「それに、陸上部を薦めたのは、私の考えじゃないわよっ!」 「もしかして、恵美ね―え?」 「当たり…。だから、私を恨むのは筋違いよ。それに、アミは怠け者だから、私のぶんまで、しっかり監督して欲しいと、頼まれちゃってね!」 「そうだったのか。まんまと謀られたっ!」 「ね―え、どう言うことなの。恵美ってだ―れ?」  正美には、二人の会話が理解できなかった。  麗子は、嬉しそうに語った。 「恵美って言うのは、私たちのピアノの先生。アミの叔母さんに当たる人。恵美ね―えが言うには、ピアノを弾くには、ピアノだけじゃなく、どんな楽器でもそうなんだけど、わりと全身の力を使って弾くのよ。一回の演奏で約二時間くらい、かなりの神経と筋肉をすり減らして演奏すから、見かけによらず重労働なのよ。だから今のうちから、それに絶えうるだけの強じんな体力と精神力を養おうと言うわけ。でないと、立派な演奏家にはなれないの。だから正美ちゃん。これはアミのためなのよっ」 「誰がいつ、ピアニストになるって言ったのよ?」  愛実は、いつの間にか自分の道を決められていたことに腹を立てた。 「大丈夫よアミ。そのうちわかるから…」と麗子は涼しい顔。 「それも恵美ね―えが言ったんでしょう?」と愛実は怒り顔。 「当たり。アミちょん、今日は冴えているわね!」と麗子は、はやし立てた。 「じゃ―あ、アミちゃんは何になるの?」  正美は真面目な顔をして愛実に訊ねた。 「取りあえず、絵描きかな。でも、それで食べていけなくてもいいの。ただ、好きな絵を好きなときに描いて、あとは午後のお日様と一緒にお茶を飲んだり、赤い夕日を暗くなるまで見ていたり、それで嬉しくなったら、また絵を描くの。後は何も要らない!」  愛実は、とても嬉しそうに話した。それは確かに、愛実の幸せな顔だった。 「詰まり、ただの怠け者じゃないっ!」  麗子は、身も蓋もなく愛実の崇高なピンクのバラのような夢を一言で、トイレの造花にしてしまった。 「わかるわ―。私も、そんな暮らしがしたい…」  そう言ったのは、もちろん正美だった。  文学少女でいつも夢を見ている正美には、愛実の気持ちが良くわかった。 「も―!、二人とも世の中なめてない。仕事はどうするのよ。結婚だて、しなきゃならないのよ。結婚すれば子供だって生まれるし、それなのに、お日様だの、お茶だの言ってられるわけないでしょう」 「私、結婚なんかしないもん!」  そう言い放ったのは、もちろん愛実だった。 「じゃ―、レイちゃんの将来は、どんなふうなの?」  正美が、無気になっている愛実を落ち着かせながら訊ねた。 「私は、絶対にピアノの先生。恵美さんみたいになりたいの!」 「でも、二人とも面白いわね。私はまた、オリンピックでも目指して、陸上やっているのかと思ったわ―」と正美はあきれ顔。 「あら私、陸上も好きよっ!」  麗子は、改めて胸を張って宣言した。 「私、嫌い!」と言ったのは愛実だった。  正美は、少し考えたようすで、 「オリンピック、目指さなくていいのなら、私も体力ないし、陸上部に入ろうかな―?」  それを聞いて、喜んだのは愛実だった。  正美の膝から起き上がって、正美の腕をとった。 「入りなさい。入りなさい。人間、なんと言っても体が資本よ。体力がなければ、この激動する日本を生き残っては行けないから。その代わりに私、抜けてもいいわよね―?」 「だめよ!」、麗子は軽くいなした。 「でも正美ちゃん。放送部はどうするのよ?」と続けて麗子が訊く。  正美はもう一度愛実を膝に抱き寄せ、愛実の髪をなでた。 「あ―、これは放送部の特権で、週2回の打ち合わせと校内放送が出来れば、ほかのクラブでの活動が認められているの。そうでもしないと、誰も放送部に入ってくれないのよ―」 「マイナーなのね!」と愛実。 「だから先輩なんかは、コーラス部とか、写真部とか、新聞部とか、二つやっているわよ―」 「それなら、問題は無いわ。正美ちゃん、陸上やりなさいよっ!」  麗子は、強く誘った。 「でも、アミちゃん。そんなに絵が好きなら、美術部に入れば良かったのに。美術部だけ、特別に信州で一週間の合宿よ…」  正美はうらやましそうに報告した。 「えっ、知らなかった。私、今から美術部に入る!」  正美の膝から跳び起きて言った。 「だめよ。アミは、陸上部よっ!」と麗子の冷ややかな声。 「私、信州へ行きたい。行きたい。行きたい…」  愛実はついに、だだっ子をやり始めた。 「でも、それなら信州に行けばいいじゃない。合宿でなくても夏休みよ。時間はたっぷりあるわよっ!」  正美は、軽く当たり前のように言ったが、二人の反応は意外と暗く沈んだ笑顔になった。 「そうなんだけどね。いろいろと事情がありまして、私の家は、お父さんがデパートだから、夏休みも、冬休みも、みんながお休みの時はかき入れどき。たまの休みは、接待ゴルフか、家でゴロゴロ…。アミの家は、おじ様もおば様も、お年だし…。今までに旅行に出かけよう、なんて話し一度もなかったし、私たちも、どこかに連れて行ってって言ったことなかったけど、知らないうちに家の事情というものをわきまえていたのね―」  麗子は、だんだん自分が惨めに思えてきて言葉尻はかすれていた。 「え―、うそ―、信じらんない!」  正美は、一転、驚いたようすで、 「以外と二人とも、詰まらない夏休みを送っていたのね!」  正美は、二人の顔を覗きながら同情していた。 「ま―ね。詰まらないといえば、詰まらないけど、お休みの日に限らず、時間が空いていれば、ほとんどピアノの練習がから、正美ちゃんに言われるまで考えたこともなかったわ。だから、私もアミも、これで十分満足してたのよ―」  しかし、愛実が嬉しそうに話し出した。 「でもね、でもね。正美ちゃん。実はね、どこかに旅行しなくても家にいて、もの凄く楽しいことが出来るのよっ!」と元気な声で、正美に自慢するように発言した。 「え―、何にっ?」 「それはね―」と愛実が言いかけた時、 「だめ―、だめだめ!」  麗子が、慌てて愛実の口をふさぎながら、愛実を自分の膝に抱き寄せ、押さえつけた。 「え―、どうしたの?」 「正美ちゃん、何でもないのよっ!アミのことはいいから、夏休みの過ごし方でしょう?」  麗子は、懸命に話をそらせようとした。 「そう言う正美ちゃんは、どこにも行かないの?」と麗子は、反対に訊き返した。 「私ー?、取りあえず夜の塾は夏休みでも毎日あるし」 「へ―え、正美ちゃん塾行ってるの?」  麗子は驚きの調子で訊き直した。 「えー?、レイちゃん塾行ってないの?」  正美は驚いて訊き直した。  そのようすで麗子は、本当に驚いてしまった。 「えっ!どうして…」 「どうしてって塾にも行ってなくて、何で成績いいの。学年の首席でしょう。家庭教師が付いているの?」 「そんなのいないよ。ただ、一生懸命に勉強するだけよ。ほとんど学校に来ない、アミと一緒にね」 「悪かったわね。この頃はちゃんと来ているでしょう」  愛実は麗子の膝の上で、かなわないまでも、少し反抗して見せた。 「どんな勉強方法しているの?」  正美は真剣な顔をして、麗子に訊いた。 「どんな方法もないよ。ただ、できの悪いアミに勉強を教えながら、自分も勉強してきただけなんだから。でも、これがけっこう大仕事で、なんたってできの悪いアミだから、よくよく噛み砕いて、要点をまとめて教えないと理解してくれないのよ。たぶん、それが良かったんだと思う。要点が分かっていないと人に教えられないでしょう」 「じゃ―あ、私のおかげじゃない」  愛実は、急に勢いづいて偉そうに言った。 「なにいってんのよ!アミがいなければ、私は今ごろ全国一よっ!」  愛実は麗子なら、もしかして全国一の成績かも知れないと思って、何も言えなくなってしまった。 「でも私、塾じゃないけどピアノは恵美ねーえの個人教授付なのよ。だから週一回は受験特訓じゃないけど、ピアノの猛特訓があるから、毎日毎日ピアノの練習は外せないし、それに陸上とアミのめんどうでしょう。はっきり言って、塾へ行っている暇ないのよ。それに私にとって今は受験よりも、将来がかかっているピアノの方が大事だから。みんなが進学塾行くのと同じように、私もピアノやっているから同じよ」 「偉いな―あ、もう自分の道をしっかり持っているのね」  正美は憧れのまなざしで麗子を見ていた。 「正美ちゃんだって、シナリオ・ライター、エッセイスト、小説家…、立派な夢があるじゃない」と麗子。 「でも私の場合、夢は夢として、今は憧れているけど、将来本当にそれが私に向いているかどうかわからないし、なれるかどうかも自信ないわ…」 「そんなの当たり前じゃない。私だって、自信ないよ。でも私はピアノが好きだから、もし夢が叶わなくても、やっぱりピアノ弾いていると思う」 「レイちゃんにとってピアノは、将来の仕事というよりも、レイちゃんの人生なのね」と正美は大人っぽく言った。 「わ―あ、凄い。さすが物書きね。言うことが違うね」と冷やかしたのは、愛実だった。 「正美ちゃん。やっぱり才能あるよ」と麗子も正美の大人びた言い方が将来を案じさせているように思えた。  正美は、少し照れ笑いを浮かべながら、お返しとばかりに、愛実に振った。 「アミちゃんだって、ピアノやっているんでしょう!」 「私は、ピアノよりも絵描きの方がいいな。絵は私の人生よ」と愛実も正美のまねをして気どっていったが、麗子と正美は冷たい視線を投げつけた。 「ね―え。どうして私が絵描きじゃいけないの?」  愛実は、二人の顔をのぞき込むようにして訴えた。 「何の話だったっけ?」と麗子は、いつの間にか話題が変わっているのに気がついた。 「夏休みの過ごし方でしょう」  正美はもとの話にもどした。 「塾の他に、家族で旅行とか行かないの?」  麗子も本題を思い出した。 「まさか、ハワイなんて言わないでよね。うらやましいから!」  愛実は資産家の令嬢のような正美ならありうるかもしれないと想像していた。 「行けるわけないでしょう。でも、人並みに近場の家族旅行なんかには行くけどね。それも夏休み以外で…」  正美は意味ありげな言い方をした。 「夏休みは、私もどこにも行けないの。唯一行けるところは、母の実家の伊豆だけ。母の実家が、伊豆の須崎で民宿をやっているの。だから、夏は忙しいでしょう。その手伝いも兼ねてね。二週間ぐらい行きっぱなしなの―」 「え―!私、そっちの方がうらやましい。なんたって、二週間も海の家にいられるなんて、トロピカル・パラダイス、最後の楽園じゃない!」  愛実は脳天気に叫んだ。 「何いってんのよ。遊びに行くんじゃないのよ。お手伝いに行くんだから…」 「それ、私の口癖ー。でも正美ちゃんが行くのだから、お手伝いじゃなくて、おじゃま、じゃないの…」と麗子がすかさず、ちゃちゃを入れた。 「何いってんのよ。私の仕事ぶりでも見に来れば」と正美は強気で発言した。 「正美ちゃんは見たくないけど、海に家には行きたいな…」  愛実は、うらやましそうに正美を見る。 「じゃ―、来たらいいじゃない。伊豆なら信州よりも遙かに近いわよ―」  正美は、はずむ声で愛実たちを誘った。 「でもね。距離の問題じゃないのよね…」  麗子は、愛実の顔を見ながら、ため息まじりで囁いた。 「じゃ―、家の人は置いといて、私たちだけで行けばいいじゃない!」と正美はさらに元気に叫んだ。 「だめよ。保護者なしでは、電車も乗れないわ―」と麗子。 「そんなことないわよ。夏休みよ。車掌さんだっていちいち気にしてないわよ!」と正美。 「でも、正美ちゃん。一人で行ったことあるの?」と心配そうに麗子が訊ねた。  正美は、一瞬力が抜けたが、気を取り直して、 「それは、ないけど。でも、一人じゃ―ないじゃん。私たち三人よ。それに、もう中学生なのよ。何とかなるわよ!」  正美の目は、再び生き生きと輝きだした。 「正美ちゃんて、以外と大胆ね―」と言ったのは愛実だった。 「ただの、無鉄砲じゃないの」と麗子はあきれ顔。 「でも私、賛成!正美ちゃん。いいこと言うわ。そうよ忘れていたわ。私たちは、もう中学生よ。何だって出来るわ。私、絶対に伊豆に行く!」  愛実は、心に決意したように麗子を睨んだ。  しかし麗子は、愛実とは反対に、 「何いってんのよ。まだ、中学生じゃない。なにもできない、子供よ…」 と落ち着いて舞い上がっている二人をいさめた。 「も―、レイは、伊豆に行きたくないの?」  愛実は、いらいらしながら麗子の気持ちを改めて訊ねた。 「…、行きたいわよ。出来れば―」  麗子はちょっと俯き加減で囁いた。 「それは良かった。これで話は決まった!」 「でも、うちの親は許してくれないよ」  愛実は安心したように叫んだが、麗子は不安そうに囁いた。  それを聞いて正美は、 「大丈夫よ。知らないところへ行くんじゃないから。私の親戚の家にお手伝いに行くんだから。たぶん私のお母さんも許してくれるわ。だから、家の人に聞いてみて、許可が出てから、また考えましょう」  正美は、もう次の段階へ入っていた。 「うちは、レイの家が許してくれれば、何でもOKよ!」 と愛実は自信たっぷりに胸を張って言ってのけた。 「そうね。取りあえず、家の人に訊いてみなければ、始まらないのよね―」と正美はそこのところは冷静だった。  それを聞いて、麗子は少しほっとしていた。 「これで、少しは夏休みが楽しくなったわ。なんだか、未知の世界に冒険旅行に行くみたいね」と正美は、冷静さを越えて、すでに旅行気分で有頂天の喜びだ。 「ちょっと、二人とも。まだ、わからないんだって。それに、もし行けたとしても、夏休みの前半の練習は毎日あるんだからね。もちろん、伊豆はそれが終わってからよっ!」  麗子は浮かれている二人に水を差した。 「やだ、やだ、や―だ。私、寝てるってば―」 「そんな事、私が許さない!正美も、良かったら、陸上やりなさいよ。オリンピック目指せとは誰も言わないと思うから…」  麗子は、正美を陸上部に入れることも忘れてはいなかった。 「そうね。レイちゃんとアミちゃんがいるのなら、楽しそうね。私も陸上部に入ろうかなー」  正美は、愛実と違って素直だった。 「それなら、善は急げよ。今日の放課後、陸上部においでよ!」  そのあとも、三人の話は尽きなかった。  もうすぐ夏休み。冒険の入り口は、もうそこまで来ていた。  そして、その日の放課後、正美は麗子のはからいで、めでたく陸上部に入った。 (麗子の楽しみ) 「アミ、起きなさいっ!」  夏休み第一日目の始まりは、やはり麗子の怒鳴り声から始まった。  夏の日射しは、まだ六時半というのに、すでに今日一日の猛暑を予感させるような暑さだ。でも、愛実は起きない。 「アミ、早く行かないと、正美が待っているよ!」  愛実は、寝ぼけながら、 「…、私、さっき、寝た、ばかりだもの…」  麗子は仕方なく、布団をはいだ。 「なにやってんの、パジャマに着替えなかったの?」 「だから言ったでしょう。私、さっきまで絵を描いていたのよ…」  愛実は、それでも起きようとせず、膝を抱えて転がった。  それを麗子は、無理やり起こして、ベッドに座らせた。  それでも愛実は、うつむきながら眠っている。 「も―いいから、服を脱いで。体操着はどこにあるの?」  麗子は、そう言いながらベッドから降りた。 「う―う―…、服、脱がして…」  愛実は、顔を上げて胸を突き出した。 「よ―おしっ!」  麗子は洋服ダンスの前から小走りに戻ると、ベッドに飛び乗り、愛実のティーシャツやらブラやらパンツを、いきよいよく、めくり上げて全部剥ぎ取ってしまった。 「うー、気持ちいい…」  すっぽんぽんになった愛実は、もう一度ベットにくの字になって転がった。  麗子はその上に覆いかぶさり、首元に顔を埋めて、ぎゅっと抱きしめた。 「レイも服脱いで…」、一緒に寝ましょう。  小声で呟く愛実に、 「…、」 「だめ、…」  麗子は再び洋服ダンスから、下着と体操服を出して、寝ている裸の愛実の上にばらまいた。 「も―、いい気なものね。早く着替えて降りてくるのよ!」 「…着せてよ!」  愛実はベットに張り付きながら、まだまだ眠たそうな声。 「何ってんのよー、自分で着なさい!」  小さいころからピアノ以外、何をやるのもぐずぐずしていた愛実の面倒を手取り足取り見ていたのは麗子だった。  麗子は、とげとげしく言い放って階段を下りたが、本当は内心ほくそえんでいた。  愛実の服を脱がす行為が、どこか快感があって心をくすぐられるような喜びだった。  ちょっと癖になりそうと思いながらも、もうすでに癖になっていると思いなおして、愛実の出かける準備を始めた。  しばらくすると、やはりまだ眠たそうな愛実が、体操服に着替えて降りてきた。 「アミ、早く行くわよ!正美が待っているって!」  麗子は、手際よくトーストとパックの牛乳を愛実に持たせると、そのまま家を出た。 「レイ、私の水筒とバック……」 「もう、全部。私が持っているよ!」と麗子は先を急いだ。 「どうして、こんな思いをして、夏休みに学校に行かなければならないのよ?」と愛実。 「アミが早く起きなかったせいでしょう!」  そして、グランドに着いてからも、 「どうして、こんな朝から走らなきゃならないのよ?」 「自分のためでしょう!」  愛実は、ぶつぶつと愚痴ばっかりだ。  麗子は、そのたびに冷たく言い返していた。 「ファイト、ファイト!」  後ろから正美がやってきて、一声かけると軽やかに二人の間を抜けて行った。  愛実と麗子がグランドに来たときには、正美はすでにロードワークを始めていた。 「見なさいよ。正美ちゃんだって、走っているのよ!」と麗子は正美を追いかけた。 「何よ、正美は見かけによらず、おてんばだっただけじゃない。レイといい勝負だわ。私の方が、よっぽどか、お淑やかよ…」  愛実は、ぶつぶつ言いながら、ますますペースが落ちていった。 「も―!、一生いってなさい。私、先に行くからね!」  麗子は、いいかげんあきれかえって、愛実を置いて先を走った。 「あ―あっん…、待ってよー!」  仕方なく愛実は、残る力を振り絞って、麗子を追いかけた。  そして、暑さも増してきたお昼近くになって、ようやく練習は終わった。  風もなく、行き場を失った熱気だけが、汗で濡れた体にまとわりついて離れない。  三人は、木陰に身を寄せながら、持参した水筒の、残り少ないスポーツドリンクを飲みほした。 「伊豆のお手伝いの話ね―え。行ってもいいて!」  正美は練習の疲れも忘れて、二人に報告した。 「やった―!、それじゃあ、海に行けるわけね―!」と疲れが吹っ飛ぶように喜んだのは愛実だった。 「え―、まってよ。私、まだ訊いてない―」  麗子は浮かない顔で、もじもじと呟いた。 「レイ、まだ聞いてないの―?」と愛実。 「正美ちゃん、ちゃんと話したんでしょうね。私たち三人だけで行くことを?」  麗子は、正美の両親がすんなり許してくれるとは思えなかった。 「もちろんよ。それなら、お母さんは行かなくても、お手伝いできるよねって言ったくらいだから。でも、おばあちゃんが寂しがるから、お盆のあいだの一週間は、母も来るって。だから、残りの七日間は、私たちだけよ!」 「正美ちゃんとこって、以外と放任主義ね―」  麗子は、うらやましそうに正美を見つめた。 「私、わかるような気がするな。こんな、おてんば娘、いない方が家の中が平和だもの…」と愛実はちゃかした。 「アミ、それは誉めてくれているのかな―?」と正美が睨んだので、三人は大笑いで地面にこけた。 「とにかく、民宿の方は、母が頼んでくれるって言ってたから、あとは本人しだいよ」  正美は、気を取り直して先を続けた。 「そう言うことなら、聞いてみるよ…」  麗子は、少し不安だった。 「じゃ―、レイの親が許してくれたら、すぐに教えてね。私も、おじいちゃんとおばあちゃんに話すから…」 「アミは、本当に気楽ね…」と麗子は皮肉たっぷりで愛実を責めた。  そして、麗子は家に帰ると、それとなく母親に訊ねてみた。  やはり、最初は頭ごなしに猛反対した。しかし、正美のお母さんが、賛成していることを話すと以外と簡単に許してくれた。 「もしかすると、私がかわいくないのかな?」と心配する麗子だった。  (母の思い出)  そして八月になって、陸上部の練習は二十日までお休みになる。  いよいよ、伊豆の冒険旅行の始まりだ。  出発の朝、愛実は信じられないくらい早起きだった。  まだ、夜も明けてない午前四時。つまり、旅行の日とあって、興奮して眠れなかった。  愛実は仕方なく、ピアノの練習室へ降りていった。  ピアノを弾き始めて、しばらくたったとき、栄二郎が入ってきた。 「眠れないのか…?」  愛実は、ピアノの音を少し弱く弾きながら、 「う―ん…、起こしちゃった?」 「…いや、気持ちのいい夜明けだからね。今日も、暑くなるな―。天気は良さそうじゃないか…」  栄二郎はピアノの後ろにあるソファーに腰を掛けて、背中の愛実に話しかけた。 「私がいなくなると、寂しくなっちゃうよ…」  愛実はピアノを弾きながら、背中の栄二郎に話した。 「…そうだな。バ―さんが、心配するから電話ぐらいしてやってくれ…」 「うん、わかった。…、私がこんなに家を空けるの、初めてね」  愛実は自分の声がピアノの音に消されないように、さらに弱く引いた。 「な―に、子供はいつか、巣立つものだよ。アミのお父さんなんかは、ひどかったぞ…。初めて家を出て、東京の大学に行って、家に帰ってきたのは、たった三度…。三度目のときにはもう、アミのお母さんを連れて帰ってきたよ…。それでいきなり、この人と結婚します。もう、お腹の中には子供がいますだろ―。そのあとは、もうおろおろするばかりで、めちゃくちゃだっよ。すぐに、山の手のバ―さんが、怒鳴り込んできて、どうしてくれるんだ、てね。なにしろ、音楽祭のコンクールがせまっていたからね―」  栄二郎は、壁に掛けられている息子と、その愛した娘の写真を眺めながあら、寂しそうに話した。  いつの間にか、愛実はピアノを弾くのを忘れて、ピアノに向かったまま、栄二郎の話に聞き入っていた。 「それからどうしたの…」 「でも、アミのお母さんは、強かったぞ。私はもう、この家の嫁です。家には帰りません。ピアノもやめます、と言って頑固として、この家から出ようとしなかったんだ。おいおい、わしはまだ何も許した覚えはないぞ、と言った感じで参ったよ」 「つまり、お父さんとお母さんは、おじいちゃんのところに逃げてきたのね」  愛実は、父と母の経緯については、少しは恵美から聞いていたが栄二郎から、じかに聞くのは初めてだった。 「押し掛け女房じゃなくて、押し掛けお嫁さんだね」  愛実は、話の調子を取るように、ちゃかしてみせた。 「なにしろ、アミのお父さんは大学四年、まだ就職も決まっておらず、お母さんは大学二年の学生だったからな。収入も貯金もないし、山の手の家には帰れない、お腹の子はどんどん大きくなるとあっては、この家に来るしかなかったんだろう。そのおかげで、わしは山の手のバ―さんから、どう責任を取ってくれるのかと攻められるし、責任を取れと言っても出来ちゃったものは、どうすることも出来ないし、わしは、ただただ、頭を下げて嵐の過ぎるのを待っていたよ」 「赤ちゃん、降ろすことは考えなかったの…」  愛実は、自分で言いながら、言った言葉に怖さを覚えた。 「いや…、ここへ来たときは、何が何でも、子供を産む、と言っていたから迷いはなかったと思うよ。それに、アミのお母さんは、天使のように優しい人だったから、授かった命を粗末にはできなかったんだろう。それから一週間くらい、この家に立てこもったかな―。ようやく山の手のバ―さんも落ち着いて考えられるようになったのか、ついに二人を許したんじゃ。結婚してからも、ピアノを続けると言う条件でな。最後にこう言っていたよ。子供が望むことがあれば、親はどんなことがあっても叶えてやりたいと願うものです、とな…。娘をお願いします、と深々と頭を下げたよ」 「それで、私が生まれたのね。お母さんは、やはり私をピアニストにしたかったかな―」 「たぶん、アミの望むことをやらせてくれたと思うよ。でも、山の手のバ―さんは、アミを世界一のピアニストにするつもりじゃよ…」  愛実は、大きくため息をついてから、また静かにピアノを弾きだした。 「おじいちゃん、ありがとう。…お母さんの話をしてくれて…」 「いや…」  栄二郎は、言葉を詰まらせながら、一言だけ言って静かに部屋を出ていった。  栄二郎に取って、息子と嫁の話をすることは、今も身を切られるように辛かった。  そして、愛実のありがとうには、無条件で十四日間の長い旅行を許してくれた感謝の気持ちが込められていた。
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