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34 「……藍くん…離れなさい」 文也はいつもより冷静に呟いた。 「すみません…五秒だけ…俺に時間下さい」 藍は正直参っていた。 文也と同じ会社に入り、まだ数日しか経っていない。それなのに、文也の周りには男だとかを超越して彼に手を出そうとする輩が後を絶たない。 離れていた時間、この人は本当に色々な意味で無事だったのだろうか? 一度くらい誰かに無理矢理汚されていても仕方ないんじゃないだろうか? 藍の心配は尽きなかった。 尽きない心配こそが、文也を抱きしめる腕に力を込めさせてしまう。 そんな事を考えていたら、藍の腕がギュッと握られた。 文也が自分を抱く藍の腕を掴んだ事になる。 藍はもちろんビックリして「たっ高橋さん?」と静かに声をかけた。 文也の白い首筋から耳の裏側が赤い気がするから余計に心臓がバクバクと跳ねた。 「今日も…何だかバタバタしたね」 大した事のない日常会話に聞こえるが、側から見たらその体勢は決してそんな和やかなモノではない。 「…高橋さんっ…」 藍は白いうなじに顔を埋めた。 キュッと文也が肩を窄めて、緊張を露わにする。 「ここに…キスしちゃダメですか?」 熱い息が首筋に触れて文也は掴んでいた藍の腕をギュッと前へ引いた。 藍の体勢がよろめいて、二人が向かい合う形になる。 「コレ…いつ消えるかな?」 文也は自分の手首を藍に見せつけた。唐突に昼間の勢いを押し付けられて、グッと押し黙ってしまう藍。 「…えっと…ぁ…それは…」 「コレが消えたら…どうするんだっけ?」 藍は俯いた視線を弾かれたようにあげた。 「また…付けてあげます…と…」 上目遣いに恐る恐る告げる藍を見て、文也はプッと吹き出した。藍の頭に見える犬耳と大きな体の後ろにあるフワフワの大きな尻尾はペタンと元気なく萎れて見えたからだ。 「アハハッ…本当、藍くんは犬みたいだね」 「高橋さんっ…」 困った顔をする藍に文也はひとしきり笑ってから彼の肩を叩いた。 「さぁ、戻って帰り支度しよっか」 さっきまでの良いムードはどこへやら、完璧に上司と部下の空気感に切り替えられ、挙句には、首筋に唇が触れる事さえ許されなかった事態に藍は項垂れた。 ガッカリした藍の前を歩く文也はギュッと握った拳を胸元に引き寄せ、心臓を押さえるようにして密かに細く息を吐いていた。 自分は何をしようとしたんだろう。 藍くんのスーツを握って、首筋に当たる熱い息が近づいて来る事に目眩がした。自分の手首に付けられたキスマークを盾にして問いかけた発言は、何かを期待していると勘違いさせたんじゃないだろうか? 「高橋さんっ」 後ろから急に名前を呼ばれ、文也は勢いよく振り返ってしまう。自然に振る舞うつもりがかなり不自然だ。 「なっ…何だい?」 「…富永さんと会う時は言ってくれませんか?…あの…我儘は承知なんですけど…」 「聖さんと会う時?…良いけど…」 「不思議そうな顔しないで下さい…あの人、高橋さんの事、完全に狙ってるじゃないですか。だから…その…嫌なんです…」 その言葉、表情にカァッと体温が上がって文也の殆ど存在しない薄い体毛が逆立った気がした。 尖らせた唇で我儘を言う藍を可愛いと思ってしまったのだ。 ハッと我に返り、眼鏡を慌ただしく押し上げクルリと背中を向ける。 「わっ分かったから。戻るよ!」 「…はいっ!!」 後ろから元気を取り戻したかのような嬉しそうな声を聞いて、文也は赤面するのを止められないでいた。 振り返ったら間違いなく、頭にある犬耳はピンと立ち上がり、大きな尻尾は元気にブンブン揺れているに違いないと思うと、また顔から火が出そうだった。
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