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17 社員証を機械にかざすのがこんなに億劫な日が来るとは… 文也は眉間に皺を刻みながらカードをかざした。 ピッと言う音とほぼ同時くらいに後ろから元気な声がかかる。 「高橋さんっ!おはようございますっ!」 ビクッと肩が跳ね上がり、恐る恐る背後を確認すると、そこには爽やか好青年の藍が立っていた。 「お、おはよう」 「…高橋さん、大丈夫ですか?顔色…あんまり良くないですよ」 スッと距離を詰められて目を逸らしてしまう文也。 「大丈夫!大丈夫!」 「まだ時間ありますよね、ちょっと待っててください!」 「えっ?藍くんっ!」 藍は長い足で颯爽と奥にある自販機に向かってしまった。 文也は出来る事ならすぐにでもタバコが吸いたかったのに、困ったもんだと眼鏡を押し上げる。 まるで大型犬の藍は頭の上でピンと立った犬耳と背後に背負った大きな尻尾をブンブン振りながら戻ってきた。 手には缶コーヒーのブラックと微糖。 「どうぞっ!高橋さんはブラックですよね!」 見える…すっごく見えるよ…尻尾と耳が… 心で呟いてみせる。 「ありがとう…じゃ、そこの休憩室入ろうか?」 文也は通路の奥を指差した。 「いえ…高橋さん、タバコ、吸いたいでしょ?」 「…えっ…」 「俺も喫煙者です。」 「そうなのか?」 文也はことのほか驚いて見せた。そりゃそうだ。文也が知っているのは高校生の藍なのだから。 「喫煙ルームに行きましょう。ほら、どうしたんですか?」 「…いや、ビックリしちゃって。大人になったんだなぁって」 「…高橋さんの影響だよ」 子供扱いするように驚く文也にムッとした藍は呟いた。 「僕の?」 「いつも香水なのか、柔軟剤なのか、良い香りに混ざって…タバコの香りがしてた。…いつだったか、ポケットから落ちたのを拾った事があったよね…高橋さんは覚えてないかもだけど…好きな人の一部を知れて、俺にとってはその日、特別な日だったんだよ。」 シュンと折れた耳と垂れた尻尾が見えた文也は思わず苦笑いしてしまった。 「君にそんな悪い物を押し付けてしまってたとはね…じゃ、責任とって我が社の喫煙ルームを案内しないとな」 文也はポンと藍の背中を叩いた。 「はいっ!高橋さんっ!」 途端に元気になった藍に文也が微笑む。 やっぱり笑顔はあの頃のまま。人懐っこくて可愛らしい。 文也は懐かしい気持ちになりながら喫煙ルームに藍を案内した。 朝早めの時間のおかげか喫煙ルームは無人だ。 狭いといえば狭いが、大の男が肩を寄せ合う程に近づかないとおさまらない程狭くはない。 「藍くん…ちょっと…近いかな」 「そうですか?俺からしたら遠いくらいです。あの……こんな事聞くのも失礼だと承知なんですが…朝からシャワーでも浴びましたか?良い香りがしてたまらないんですけど」 藍の言葉に文也は全身が真っ赤になるかと思った。 今朝の事を走馬灯のように思い出したのが重なったせいだろう。 「藍くん、ここ、会社だよ…」 「…全力で行くって言ったでしょ…」 文也は取り繕うようにタバコを内ポケットから取り出した。 火を探すもテンパってしまって上手くいかない。 すかさず藍がライターの火を差し出した。 「ぁ…ありがとう」 その時、近距離だったせいで藍は文也の首筋の痣に目が止まった。 缶コーヒーを開け、美味そうに飲む文也。 「それにしても、僕がブラックだって良く覚えて」 藍は文也のタバコを持つ手首を掴んだ。 「昨日っ…」 「なっ!何っ?ビックリするだろっ」 「…すみません…あのっ…」 藍は手首を掴んだまま俯いた。 「藍くん?」 「昨日…誰かと居たんですか?」 「ハッ?!なっ何で?!」 「朝帰りだったりしますか?」 文也の手首を掴む力に容赦がなくなる。 「朝帰りって!そんなんじゃないよっ!」 分かりやすく慌てふためく文也に、藍はギリッと唇を噛み締めた。それから、掴んでいた手首を存外乱暴に引き寄せ、鼻先スレスレのところで文也を見下ろした。 「俺…引きませんよ」 深い黒の瞳がギラッと文也を捉えている。 ゴクッと唾を飲む音が、ボロい空気清浄機の煩い音に吸い込まれて欲しかった。 しかし、それはハッキリと藍を更に刺激したわけで。 「彼女じゃないですよね?佐野さんが居ないって言ってたし」 あまりの冷たい表情に文也は本当の事を吐き出した。本当の事なだけにやましい事など何もない。隠す方がかえって事態をややこしくすると思ったのだ。 「昨日は…関とバッタリ会社の外で出会って、仕事の話がしたいっていうもんだから、いいよって返事したんだよ。そしたら、彼の行きつけのバーを紹介されてね、随分居心地が良かったんだ」 「また飲みすぎたんですか?」 藍は眉間に皺を寄せる。 「そう言うなよ…気づいたら関の家のベッドを借りて眠りこけてたって結末だよ…風呂上がりの匂いはそのせい。朝、一度帰ってシャワーを浴びたからね。…な?何にもないだろ?…ってまぁ…部下の家で酔い潰れてたんじゃ、何もないうちに入らないけど…藍くん…手…痛いよ」 長い指先に挟んだタバコから灰が今にも落ちそうだった。 藍はそのタバコを取り上げて灰皿に捩じ込む。 それから、文也を見ないまま呟いた。 「関と…何もなかった?」 文也は上擦った藍の声にハッとした。逸らされたままの藍の表情を見ると、ギュッと握った拳がフルフルと小刻みに震え、悔しそうで今にも泣きだしそうな顔は数年前に告白を断った日を思い起こさせた。 文也は柔らかな微笑を浮かべ、藍の握られた拳を優しく包み込む。 「…高橋さん?」 「藍くんが心配するような事は何もないよ。普通に考えて、あるはずないだろ?」 「俺の普通じゃ大アリなんです。」 文也はキョトンと目を丸くしてからプッと吹き出した。 「アハハ、藍くんは本当に面白いね」 腹を抱え笑う文也を藍はじっとり恨めしそうに見た。 「一本吸ったら行こうか」 ニッコリ微笑みかける文也に、藍は歯切れ悪く後頭部を掻いた。 「高橋さんは吸ってから上がってください。俺、ちょっと用を思い出したんで.先に上がります」 「用?…分かった」 文也は喫煙ルームをそそくさと出て行く藍の背中を見送った。
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