29

1/1
前へ
/104ページ
次へ

29

29 「遅くなりましたぁ」 会議室に文也が現れたのは藍が戻ってから10分程経った頃だった。 宝井は文也に近づくなり両肩を掴み、鼻をクンクン鳴らした。 「ほぉ〜、俺たちを働かせて一服とは洒落た事すんじゃねぇか」 宝井がニィッと嫌な笑顔を向けてくる。 文也はギクッと肩を竦めながら「勘弁してください」と苦笑いした。 「坂巻さんですよね?出ないんですか?」 文也はすかさず話題を変えようと切り込んだ。 宝井は「いつものあれだ」と文也の肩をポンと叩いて肩を竦めた。 「あぁ…じゃ、今回はうちで?」 「そ!で、昨日届いてた商品がこんなとこに積まれててな、移動だよ移動!」 「台車用意しますね」 「いや、隅に寄せりゃ良いわ。狸親父の事だから下手したら途中から出るとかいいかねない」 宝井は段ボールに手をかけた。関がその手を掴む。 「どうした?」 首を傾げる宝井に関は顎で藍と文也を指す。 「後はお二人に任せて俺達も食後の休憩行きましょう」 宝井は文也に視線を送る。 「行って下さい。あとはやっておきます。関くんありがとうね」 「ウス…じゃ、課長行きましょう。俺、コーヒーがいいっす」 「あ?俺が奢んのかよ」 「俺が奢りますか?」 「はぁ…ったく、しっかりした奴だぜ」 文句を言いながら宝井と関は会議室を出て行った。 藍と文也の間に妙な緊張が走る。 「…さっきは…すみません」 藍が小さく呟きながら段ボールを担いだ。 「…謝る事はないよ…僕も十分説教じみてた。」 「じゃあ、俺の気持ち少しは伝わりましたか?」 「……まぁ…そうだね…こんな事されちゃ…」 文也はキスマークのついた手首を藍に見せてから無意識に顔を赤らめ視線を逸らした。 藍はそんな文也を見て、抱きしめてしまいたい衝動を抑える為に抱えていた段ボールを持つ手に力を込める。 「は、早く済ませちゃいましょうか。メーカーさん来ちゃいますよね」 意識を逸せる為にテキパキと動き出す藍。 文也はその真面目な姿を見てやっぱり可愛いなと思っていた。 ただ、この感情が藍と同じである確証がないのは四年前と変わらなかった。 藍の意思表示は昔同様にストレートで曇りがない。文也をまっすぐ捉えて、離さない。 段ボールを片付けながら、何度も見える手首の内側のキスマークにクラクラしていた。 ワァーッと叫びたくなるような高揚とは違うのに、グズグズと温もりきらない温度が返って気持ちを不確かにしていく。 唇の温度が、頭から離れない。 文也はふっと笑った。 年甲斐もなく面白い事を考えている。 このキスマークが消える頃…藍くんは本当にまた僕にこの温もりきらない唇の温度を肌に落とすだろうか?一緒に働いていれば、いずれ気持ちは錯覚だったんだと我に返るに違いない。 そうなった時、酷く落ち込むのは僕なんだろうか? 不思議と文也に答えは思い浮かばないまま。 だけど妙に残酷で悲しい気持ちになっていた。
/104ページ

最初のコメントを投稿しよう!

782人が本棚に入れています
本棚に追加