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部屋に通された室井は、岸田の暮らしぶりを観察するように辺りを見回した。広さもだが、椅子や食器の数・ベランダに干してある洗濯物を見れば一人暮らしではないことは一目瞭然。背中を向けてコーヒーを準備していた岸田は問い正されるのを覚悟していたが、何も言ってはこなかった。先ほどの電話が同棲相手からだと察しているにもかかわらず…… である。
痛む胸を庇いながら どうにかコーヒーを入れ終えた岸田は「どうぞ」と室井の前にカップを置いた。「ありがとう」とそれを口に運ぶ室井の様子は「動けない」とか「起きれない」とか言って駄々をこねていた姿とは一変していた。
――― あれって酔ったフリをしていたんだろうな
義兄が自分に下心を持っていたことに衝撃を受けたが、こちらにも落ち度があった。中華料理屋で手を重ねられた時、家へ来たがった時、恋人の存在をアピールしておけば彼を自宅へ連れて行かずに済んだだろうし、恋人の有無を聞かれた時に はっきり肯定すれば口説かせる機会を与えずに済んだ。一族を巻き込む騒動を起こした自分が、また違う男と暮らしていることを知られるのが嫌でついた嘘が招いた結果なのだ。なので、今回のことは水に流すことにした。恐らく、室井自身そうしたがっている。
じっと見つめていたら室井と目が合う。彼は真剣な眼差しを向けると
「息切れして凄く辛そう。受診した方がいいんじゃない? 俺、付き添うよ」
「付き添う代わりに早く帰ってください。長居しすぎて父にバレるんじゃないかって気が気じゃない」
「責任を感じてるんだ。だから……」
「この痛みだったら最悪肋骨にひびが入っている程度で、バストバンドで固定したあと、痛み止めと湿布を処方されて帰されます。それくらいなら自宅で出来ます」
「じゃあ湿布を張るの、手伝うよ」
「大丈夫、一人でできます」
「つれないな……。もしかして、怒ってる?」
「どうして?」
「色々やらかしたから」
「酔った上でのことだから気にしていません」
「ならいいけど」
そう言ったものの表情が曇ったままの室井にフォローの言葉をかける。彼がわだかまりを残さぬように……
「また近くに来た時は連絡してください、待っていますから」
こうして、一連の騒動を起こした室井は帰路に就いた。彼は駅まで送ろうとする岸田を制すると その体を心配し、最後にこう言い残して部屋を出た。
「モデルの件、いい返事を待ってる」
後ろ姿が見えなくなると、岸田は胸の痛みを覚えて手で押さえた。先ほどまで室井に心配をかけぬよう気を張っていたが、その必要が無くなると息をするのも しんどくなる。頭の隅っこで【受診】の二文字がよぎったが深酒した体はそれを許さず、とりあえず手元にあった消炎鎮痛剤と湿布で しのいだ。バストバンドの代わりになるようなものがあれば良いけれど、適当なものが見当たらない。近所のドラッグストアにも多分ない…… そう思った岸田は通販サイトで適当なものを選んで注文ボタンを押したあと、天井に向かって呟いた。
「とんでもない一日だった……」
怪我もさることながら、信頼していた義兄から そういう気持ちを持たれていたこと、それも不倫を良しとした考えの持ち主だったことにショックを受けた。酒の上での戯言と穏便に済ませたが、これからどういう風に付き合えばいいんだろう…… と、ぼんやり考えていたら呼び出し音が鳴り始め、画面に表示された名を見てスマホを落としそうになった。
――― どうして円姉さんが!
『もしもし、怜?』と久しぶりに聞く声音に「ああ、うん」と、しどろもどろに答えれば、いきなり『うちの旦那が来てない?』と尋ねられて血の気が引く。
『到着時間が過ぎているのに、まだ来ないの。もしかして、あんたのところに……』
みなまで言わさず、岸田が答える。
「ごめん! 新幹線の乗り換え駅で待ち合わせして、一緒にメシを食ったんだ」
「やっぱり」
「さっき別れたから、あともう少しかかると思う」
「そう、わかった」
それだけ言うと事切れる。いつもと変わらぬ そっけなさ。なのに、一段と不愛想に感じた岸田は、もしかしたら彼女は全てお見通しで、自分を牽制するために かけてきたのではないかと思い、額に脂汗が滲んできた。が、再び呼び出し音が鳴り出したため、今度は心臓が飛び出しそうになった。
一番上の姉 遥からだった。彼女は『元気にしているのか?』とか『年末年始に逢えなくて寂しい』とか『困ったことはないのか?』など聞いた後、こう尋ねた。
『室井さんの到着が遅れてて、お父さんが それはもう うるさいの。唯一の心当たりはあなたの所で……」
円と同じ返事をすると「やっぱり。お父さんには適当に誤魔化しておくわ』と言って電話が切れる。
こうして、円の電話の理由が単に夫の行方を確かめる為だと分かった岸田は、安堵感と疲労感がないまぜになって気が抜けていた。
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