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室井の下敷きになった岸田は呻き声を上げた。胸を上り框に強打して思ったのは『肋骨、やられた』。息をするのも ままならず脂汗が滲んでくる。
頬を掠める室井の吐息が酒臭い。『もう勘弁してくれ』と睨み付けても目を閉じている彼には伝わらず、『こんなところで寝るなよ!』と身じろぎしても痛みのせいで逃れることが出来ない。すっかり諦めモードになった岸田が体を弛緩させた時である。
「気持ちいいな……」
『冗談じゃない!』とばかりに室井の背中を叩いたら
「しばらくこうしていたい」
この言葉に岸田の堪忍袋の緒が切れた。
「重いから どいてください」
「だめ、起きれない」
「きついです。だから早く」
「ムリ、動けない」
「このままじゃ風邪ひきますよ」
「酔っ払いはひかない」
「殴っていいですか?」
「ねえ、怜君って付き合ってる人いるの?」
この突拍子のない質問に岸田の目が点に……
「今気づいたんだけど、そこにある靴…… 誰の?」
『そこにある』と言われて目だけ動かせば、三和土の隅に原のローファーが……
「あれ…… 俺のです」
「彼氏のかと思っちゃった。で、どうなの?」
「何でそんなこと聞くんです?」
「ちょっと気になって」
「気にしてもらって悪いですね」
「いるの? いないの?」
「いません」
「ほんと?」
「本当です」
「寂しかったりするんじゃない?」
「全然!」
「うそ。大みそかに独りぼっちでいるのはイブの次に侘しいよ」
「何が言いたいんです?」
「だから、今晩は一緒にいてあげるって意味」
「余計なお世話です。それに、早く帰んないと姉さんが心配しますよ」
「『怜くんちで一晩泊まってく』って言えば問題ない」
「父さんの耳に入ったらタダじゃすみませんって」
「あの円がそんな失態犯すはずがない」
「……」
「OKしてくれたら どいてあげる。ダメな時は力ずくで何とかしてね」
そう言うや否や、室井は体重をかけてきて、肋骨が痛む岸田は思わず歯を食いしばった。
室井の行動が理解できなかった。これは酔っ払いのたわごと? それとも――― 自分に気があるのか!?
いや、まさかそんなこと…… と、岸田は首を横に振る。確かに、親戚の集まりでは 二人でよく飲んだし、親から勘当された後も ちょくちょく連絡を寄越してくれた。でも、それは面倒見の良さからきていることで愛情とは考えにくい。家に来たがったり、恋人の有無を尋ねたり、『今晩傍にいてやろう』なんて言ったのも酔ったからで――― そう片付けようとした矢先、室井の腕に力が籠って総毛立つ。
『これは、もう黒だ……』と、絶望した岸田の脳裏に浮かんだのは、姉の顔。絶対間違いを起こしてはならないと焦った彼は脱出を試みたが、肋骨の痛みと相手の重みでままならず、蜘蛛の巣に掴まった虫の如く もがくことしか出来ない。
相手は酔っているが本気になられたら かなわない…… と顔面蒼白になった その時。スマホの呼び出し音が鳴り響いた。
これが暗闇を照らす一筋の光のように鼓膜に届いた岸田は「出ないと!」と叫んだ。しかし、室井は何も聞こえないという風に身じろぎひとつしない。なので、今度は背中を力いっぱい叩いた。
「薬局からかも!」
そんな岸田の切羽詰った声音に、室井がようやく反応する。
「大晦日に店が開いてんの?」
「俺は休みだけど他のスタッフが働いてるんです。で、明日は俺が出勤日」
「正月なのに?」
「24時間・年中無休なんですよ、救急病院の門前だから」
この状況を何とかしたい岸田は口から出まかせを言い、電話に出させろと訴えた。しまいには「何かあったら責任とってくれますか!」と悲鳴に近い声を上げると、室井は渋々体をずらした。
今だ!――― そう思った岸田は肋骨の痛みに顔をゆがめながらコートのポケットをまさぐりスマホを手にする。そして、表示された【原 圭吾】の名を見て九死に一生を得た思いをしたのだった。
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