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「もしもし、原さん?」と、切羽詰った問いかけに、『おっ、やっと出た』と呑気な返事。原は無事に着いたことを報告する為に電話をかけてきたようで、実家でのんびりしている様子が受話口から伝わってくる。
『忙しかったんじゃない?』
「い、いいえ。それより、いつ着いたんです?」
「2時間ほど前」
「新幹線、混んでたでしょう?」
『上りはポツポツ空席があったよ。それがさぁ……』と言ったところで『ちょっと待って』と、話しが途切れ、スマホの向こうで「こっちに来んなよ」と、誰かを叱りつけていた。どうやら電話相手を詮索してる母親を咎めているようで、岸田は自分の窮地を忘れて目を細めた。
『途中でゴメン。で、なに話してたっけ…… そうそう、隣の座席の人が猫連れでさ、キャリーバッグに入れられた子猫がミャーミャー鳴き通しだったんだ。それが可愛くて飼いたいと思っちゃった』
原の雰囲気が少し違うと感じた岸田は、言葉のイントネーションが変わったことに気がついた。彼の故郷は新幹線で1時間半ほど東に行った場所だが、そこの空気に触れた途端、地元人に戻っている。会社初の24時間・365日対応可能の薬局を任されていている恋人は毎日が緊張の連続。だから、帰省してリラックスしている様子に安堵していたら、体を密着させた室井が「誰と話してんの?」と不機嫌そうに尋ねてきた。そんな義兄に『静かにしろ!』と目で睨み付けた その時―――
『誰か そこにいるの?』
「ど、どうして?」
『声がしたから』
「気のせいですよ」
『そんなことより頼みごとがあって。年賀状を出し忘れて、代わりに出しといてくんない?』
「どこにあるんです?」
『靴箱の上。行く前にポストに寄るつもりだったのに うっかりしちゃった』
「構いませんよ」
『よろしくね。それから、息が荒いけど どうしたの?』
「えっ?」
『声もきつそう。もしかして、喘息の発作?』
「それが…… 電話に出る前にコケちゃって」
『コケた! どこで?』
「玄関で。段差のある所で胸を打って」
『肋骨とか折れてない?』
「そこまでは。痛み止めと湿布を貼っとくんで大丈夫です」
『大丈夫も何も。息もしづらいほどなら受診したほうがいいよ』
「酷くなるようならそうします。だから、原さんも気にしないで ゆっくりして下さいね」
電話を切った岸田はスマホをぎゅっと握りしめた。そして、何も知らない恋人への罪悪感と、再び危機的状況に向き合わなければならない切迫感に がんじがらめとなった。
どうすれば この男の思惑をかわすことが出来るだろう? そうだ、今は抵抗せず大人しくして、隙を見てトイレへ逃げよう。気分が悪いふりをしたら、恐らく無理強いはしないはず――― などと考えていたが、室井の様子が変わったことに気がついた。電話を終えても話しかけてこず、身じろぎひとつしない体から伝わってくるのは胸の上下運動のみ。それは規則正しく行われ、もしかして眠った? と、希望的観測を抱いた岸田は目の前が明るくなった。
――― 良かった! 彼は酔っていただけで本気ではなかったんだ
胸を撫で下ろした岸田は、室井が確実に眠入るまでじっとしていた。が、安堵と深酒のせいで自分も瞼が重くなり、うつらうつらし始めたその時……
「さっきの電話…… 誰からだったの?」
その言葉に、岸田は眠りの淵から引き戻されて瞳を瞬かせる。
「友だちからです」
「かなり親しいそうだったね」
「そ、そうですか?」
「声を聞いただけで相手の状態が分かるんだから大したもんだ」
原との関係をもっと突っ込まれるかと身構えていたが、それ以上追及されることはなく、次に体の心配をされた。「俺のせいで怪我をさせちゃった」と言うと やおら身を起し、岸田が起きるのに手を貸した。それら一連の行動は素面そのもの。岸田は思わず目を疑ってしまった。
「大丈夫? 骨とか折れてないよね」
息をしただけでも痛むけれど、義兄との間に わだかまりが残るのを恐れた岸田は歯を食いしばってそれに耐え「少し打撲しただけですから」と笑顔で答えた。
「酔い、醒めました?」
「まあ…… ね」
「コーヒーでも入れましょうか」
「そうだな、貰おうかな」
こうして、室井から迫られることはないと確信した岸田は、彼を部屋に招き入れたのだった。
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