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7.彼の気持ち
暑い季節がやってきた。
斗和ちゃんのパパが『生田 蓮』だと知ってからちょうど一年くらいが経つ。
彼と距離を置いてから、LINEをすることもなくなり、ご飯も一緒に行かなくなった。
でも保育園で会うといつも彼から話しかけてくれる。挨拶や子供の話をしたりする程度だけど。
最近は彼への気持ちが少し落ち着いてきた気がする。無理やり自分自身でそう思うようにしているだけかもしれないけれど。
いつものように保育園へ迎えに行き、家に帰ると、柚希が私に言った。
「ねぇ、斗和ちゃんのパパがね、ママと一緒にいたいんだって!」
柚希にどういうことか訊ねると、今日保育園で斗和ちゃんが柚希にそう言っていたらしい。まさか彼がそんなこと言うわけがない。最近柚希は妄想話もよくしてくるから、そのたぐいかなと思っていた。
柚希からその話を聞いてから、三日が経った。
朝、保育園の門の前で、彼と会う。
「おはようございます」
「おはようございます」
いつものように、彼から挨拶をしてくれて私も挨拶を返す。
四人で玄関に入った時、斗和ちゃんが私に言った。
「ねぇ、柚希ちゃんのママー、パパがね、一緒に遊びたがってるよ!」
「えっ?」
「斗和、そういうこと言わなくていいの!」
「えー、だってパパ、泣きそうだったからね、柚希ちゃんのママに教えてあげたの!」
「斗和! すみません。今の斗和の発言、本当に気にしないでください」
無理。
気にしないなんて、絶対に無理!
斗和ちゃんの言葉を聞いてから、気まずい。そんな気持ちと共に淡い期待も心の中でフワフワしてる。
私は年長さんの『きりん組』の教室まで、柚希と一緒に向かう。斗和ちゃんも同じクラスで、しかも柚希と仲が良いから一緒に向かうことになる。親同士は微妙な雰囲気。いつものように先生に挨拶して、柚希とハグをする。なんとなく教室から彼が出ていくのを確認してから、私も教室を出る。彼に追いつかないように、ゆっくりと玄関に向かって歩いた。それから、外に出て、彼が車を走らせたのを確認。私も自転車の鍵を開け、乗ろうとした。
その時、彼の車が戻ってきた。
――なんで?
彼は駐車場に車を停めて、降りてきた。
私は自転車にまたがった状態で、彼の行動に目を離せずにいた。
「江川さん、あの!」
強めに彼は私の名前を呼んできた。その一声で私は自転車から降り、自然に背筋が伸びる。そして、私も同じように強めな返事をした。
「はい!」
「あの、さっき、斗和が言ったこと、事実なんです!」
「えっ? はっ?」
彼から直接そう言われ、私は動揺しすぎて何も言葉が出てこない。
「これから、お仕事ですか?」
「あ、はい」
「お仕事何時に終わりますか?」
「今日は十六時ちょっとすぎぐらいに終わりますけど……」
「じゃあ、その時間までに僕も仕事終わらせます! そしてお店の前で待ってますから!」
彼はその言葉を一方的に言うと、車に乗り、走らせ、そのまま消えていった。
もうこれ、一日彼のことしか考えられないパターン!
仕事どころじゃないよ……。
初歩的なミスしそうだとか、ダメダメな一日になる予感もしたけれど、何事もなく、無事に仕事を終えた。
従業員が出入りする裏口前にいつも停めてある自転車。乗る前に、スーパー正面の駐車場をそっと覗く。彼の車をすぐに見つけた。すぐに私の存在に気がついた彼は、車から降りてきた。
「お疲れ様です! 自転車はどちらですか?」
「裏に停めてありますけど」
「こっちに持ってきましょうかね。じゃあ、鍵貸してください」
「あ、はい」
自転車の鍵を渡すと彼は裏に行き、自転車に乗りながらこっちに戻ってきた。
――何故こんなにも自転車に乗る姿もさわやかで、格好良いの?
彼は車に自転車を乗せ、助手席にあったジュニアシートを後ろの席に置いた。
「隣に乗ってください!」
「はい」
言われるがまま、私は助手席に乗る。すると彼は車をすぐに走らせた。
「今日、保育園のお迎え、十八時で大丈夫ですか? ふたりでお話がしたいです」
「はい」
たまにはこういう感じで、ちょっとだけお迎え遅くなっても、大丈夫だよね?
彼は窓を開けて、新鮮な空気を車の中に取り入れた。心地よい風が流れてくる。
「まずは、あの時の質問に答えさせてください」
生田さんはあの女優さんとお付き合いしているのか? という質問だ。
「はい」
私、朝からほとんど「はい」としか言えてない。今日の彼はいつもよりも強く、私は彼に押されぎみ。
「お付き合いはしておりません! 元彼女ですが、恋人に戻ることはないです!」
はっきりと言いきった!
「もう、なんであの記事、復縁とか書いたんだろう」
彼をちらっと見ると、そう呟きながら眉間に皺を寄せていた。
「そのせいでこんな……」
今度は口をへの字にしている。
「コロコロ表情が変わって、今日の生田さん、可愛い」
心の呟きを声に出してしまった。
「可愛いだなんて……。僕は、真剣なんです!」
「あ、ごめんなさい」
「いえ、良いんです。江川さんに可愛いって言われるのは嫌じゃないですから」
「……」
「あのですね、撮られた時、彼女と斗和の服を一緒に買いに行ってたんです」
「服を?」
「はい。女の子の服、よく分からなくて。ちなみにあの写真ですが、結構前に撮られたやつで、江川さんからあの可愛い服のサイトを教えてもらった時よりも、だいぶ前のものです」
そうだったんだ。
「それに、あちらにはもう別の恋人がいますし。だから、恋人になるとか、本当にありえません!」
「そうだったのですね……」
彼は車をどこかの駐車場に停めた。
「ちょっと、歩きませんか?」
「はい」
車から降りると、辺りには多くの緑があった。少し歩いて木の階段を上ると、街が見下ろせる高台にたどり着いた。空気が綺麗。
「僕は、子供たちと皆で過ごすのももちろん好きですが、こうして、ふたりで過ごしたいとも思っていました」
景色を眺めていた私は、ふと彼を見る。
彼はじっとこっちを見つめて言った。
「実は今、こうしてふたりきりでいることに、すごくドキドキしています」
いつも大勢の人に囲まれている、大人気な俳優さんが、私なんかに?
「江川さん、ずっと隣にいてほしい、です」
私の心臓の鼓動が速くなる。
これは現実か、夢か?
もしも夢なら、これ以上、変な期待が膨らまないうちに、目を覚ましたい。
私が何も言えないでいると、彼は言葉を続ける。
「でも、江川さんは自分みたいな人、嫌ですよね?」
何を言っているの? 嫌じゃない、嫌じゃないのに動揺しすぎて言葉が出てこない。
「ごめんなさい、忘れてください」
このままでは、せっかく彼の心が近くに来てくれているのに、離れてしまう。
私は深呼吸した。
そして想いを伝えた。
「嫌なわけないじゃないですか! 外見は完璧だし、優しいし、子供想いだし、頼れるし、それに、一緒にいると幸せだし! 嫌いな要素、ひとつもないです! もう大好きすぎて、私は爆発しそうですよ! 壊れちゃいそうですよ!」
伝えているうちにどんどん気持ちが高まり、声も大きくなっていく。もう最後辺りの言葉は、言いながらわけが分からなくなっていた。
伝えるのと同時に、心の中のモヤモヤと涙が、一緒に地面へと落ちていった。
呆然としながら彼は私をしばらく見つめていた。それから、はっとした表情になり、時間を確認した。
「江川さん、このタイミングで、あれですが、お迎えの時間です!」
私は時間を確認する。
十七時三十分。一応私が通っている保育園では基本、十八時までにお迎えに行くことになっている。それよりも遅くなる場合は延長保育となり、園に連絡しなければならない。
「ギリギリですね! 江川さん、急ぎましょう!」
「はい!」
急いで車に乗った。
運転しながら彼が言う。
「他に何か質問はありませんか?」
質問、質問……。
ありそうなのに、急で何も思いつかない。
しばらく沈黙が流れてから彼が言った。
「江川さん!」
「はい!」
「恋人になってくれますか?」
「……はい、生田さん。よろしくお願いします!」
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