なりそこない

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その日は、月が見えなかった事を覚えている。 「……別れよう」 「どうか僕の事は忘れて、幸せになってくれ」 「──……っ、」 『去り際は後腐れなく、笑顔で』 『綺麗な女は泣いてばかりいられない』 ──遠い昔に誰かが私に放った言葉が、棘のように心を苛む。男に振られては泣いて、それでも恋をする事に追い縋っていた私には理解に時間のかかる言葉だった。当時は泣けば済むのだろうと突き放した男も居た、汚泥を見る目で見詰めてきた男も居た。その度に泣いて、泣いて、泣いて。ウサギのように真っ赤な目を見て、人は私を馬鹿な女だと指をさして笑った。 「……」 無言の間に目頭がじわりと熱くなる。喉元までせり上がった熱を押し込めようと空気を嚥下すると、彼は気遣わしげに顔を覗き込んできた。 「……人通りの多い所まで送ろうか」 ──思わず、馬鹿ね、と声が漏れた。この男はどこまでお人好しなのか。手を離した女の行く先を心配し、心を案じて、願わくば遠い未来に幸せになって欲しいとすら考えている。言ってしまえば生粋の馬鹿だ。 本当に、馬鹿過ぎて涙が出てくる。 「……」 ああ、 だからこそ、だからこそ。 すぅ、と。 私は肺いっぱいに冷たい空気を吸い込んだ。 「──大丈夫。一人で帰れないほどヤワな女じゃないのはあなたも良く知ってるでしょ?そんな事より、明日から湿っぽい顔をして出勤してくるんじゃないよ。イケメンくんに浮かない顔をさせたのが私だってバレたら、女性陣から顰蹙を買っちゃうからね」 「──、」 ……今ばかりは、私も役者になれていただろうか。肩を竦め、さも呆れたような声を出し、揶揄い交じりの苦笑いをしてみせた。『綺麗な笑顔』には遠く及ばないが、前に比べたらしっかり笑えているはずだろう。 「じゃ、また明日」 "待って、行きたくない" 「あんまりお酒は飲み過ぎないでね」 "今すぐにでも振り返って手を伸ばしたい" 虚をつかれたように固まっている彼に背を向けると、私は持ち得る限りの力を振り絞り走り出した。 「──!!」 後ろで彼が何かを叫んでいた気がしたがそれに気を留める事も無く、ひたすらに走り続けた。周りの景色が光の粒となり、尾を引いてゆるく後方に流れていく。 肺が、目頭が、脚が、心が痛い。 痛い、いたい。いたい、 「っ、く、」 気付けば両眼から、大粒の涙が溢れだしていた。 ──役者になれなかったウサギは、今夜もまた空を見上げる。
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