チルチルの矜持、ミチルの憂鬱

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 だが予想に反してミチルの目玉がくるりと回って急に据わったかと思うと、静かに長く息を吐き出した。  そこから漏れ出た声は意外にもとても小さく、低かった。 「たとえ全てを失うことになっても?」  その意味を理解するのにしばらく時間がかかった。  咀嚼を終え、ほぉ~、と俺は思った。  離婚するとでも言うつもりか。  どうせそんなこと、できるわけがないのに。   ただのはったりに決まっている。はったりにははったり返しだ。 「たとえ全てを失ったとしても、俺は構わないね」  ここで引き下がってたまるか。俺の本気を軽く扱われるなんて、冗談じゃない。  負けず嫌いのミチルが納得するとは思っていない。  当然言い返されるだろうと身構える。  だが予想に反してミチルは、「わかった」とあっさり答えた。  拍子抜けする俺を尻目に、ミチルは二階に上がり、バタバタと大きな音を立てながら何かを始めた。  忙しなく部屋を行き来する足音、タンスやクローゼットを開け閉めする音。  当てつけのようなそれがしばらく続いたかと思ったら、ミチルがパンパンに詰まったボストンバックを抱えて下に降りてきた。 「それでは、今まで大変お世話になりました」  ミチルは抑揚なくそう言うと、「蒼太、今からじいじんちに行こう」と蒼太に声をかけた。  蒼太が目を見開いて「じいじんち? やったー!」と素直に喜ぶ。  俺は内心、「はい、出た、実家―」と思っていた。  ミチルは何かにつけてすぐに実家に帰りたがる。  実家依存症とか言う言葉があるけれど、ミチルもそうなんじゃないかと俺は勘ぐっている。  だいたいミチルもミチルだし、義父母も義父母だ。  俺からしたら甘えすぎだし、甘やかしすぎなのだ。 「パパ行ってくるねー。おりこうさんにしててねー」  そう言って蒼太が玄関に向かって走る。  駅で言えば三つしか離れていない距離にミチルの実家はあるが、俺は当然のように正月くらいしか顔を出さない。  だから蒼太は、ミチルの実家と言えばミチルと二人で行くものだと思っている。 「行ってら―。蒼太、お菓子食い過ぎんなよー。おじいちゃんたち、見境なく蒼太にあげたがるけどさー」  玄関から「はーい」と蒼太の返事が聞こえた。  蒼太にそれを言いたかったわけではない。    嫌みの一つでも言わなければやってられない心境だったのだ。  だがミチルは俺の放った爆竹に対して、手榴弾をぶん投げてきた。 「離婚届けは、落ち着いたら送りますから」  思いがけないワードに俺の思考が止まる。  ミチルの足音が躊躇なく遠ざかっていく。  玄関から蒼太とミチルの声がしたが、二人が何を話しているのかまではわからない。  ガタガタガチャガチャと大掛かりな音を立てたかと思ったら、やがてドアの締まる音がした。  うるさいくらいの静けさが降りる。  居ても立っても居られず、さっさまでミチルが料理していたキッチンに入った。  まだ焼かれていないサンマ三匹の乗ったトレーがワークトップに放置されている。  ゴボウやらシイタケやらの煮物はすでに炊き上がっていて、その隣に豆腐とネギの味噌汁があった。  今まで何度も喧嘩をしてきたが、ミチルから「離婚」というワードが出てきたのは初めてだったことに、今さら気づく。
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