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「ママ、手痛いよ」
自分でも気づかぬうちに、蒼太の手を握る力が強くなっていたようだ。
「あ……、ごめん」
「ママ、怒ってる?」
「え、……ううん、怒ってないよ」
怒ってる。ほんとはすごく、怒ってる。
でも蒼太に空気を読ませるのは筋違いだ。
「蒼太、ベビーカー乗る?」
「えー? いい」
キャリー代わりにベビーカーに乗せたボストンバッグには、とりあえず最小限の荷物だけが詰まっている。
それでも当分家には戻らない前提となると、いつもの荷物よりだいぶ詰め込みたくなった。
パンパンに膨らんだバックが、ベビーカーの座席で不規則に揺れている。
その揺れを見ていたら、さっきの智留とのやりとりが再び思い起こされた。
限界だった。
智留の無神経さにはもうほとほと呆れていたし諦めていたけれど、今日のあれはない。
思い出すだけで、吐き気を催すほどの苛立ちが募る。
そもそも今日だって、私は家事と蒼太の相手で慌ただしく一日が終わろうとしていたのだ、天気がよかったから庭の雑草抜きをしようと思っていたのに、結局手をつけることができなくて、延びたら延びた分だけ、雑草も伸びて余計に手間がかかるし、最近はお腹が張ることも多かったから、早いうちにやってしまいたかったのに、そんな状況にも関わらず、智留ときたら朝、――私から言わせれば十一時というのは昼と呼ぶけれど――、起きてからずっとスマホをいじってばかりで、何も手伝おうともせず、蒼太が構ってほしそうにしてもお構いなしで、たまに蠅でも払うかのように蒼太を邪険にするのを目の当たりにすると本当にぶっころーー
頭をぶんぶん振って深呼吸する。
もう一度、大きく深呼吸する。
私の毎日はビデオテープなら擦り切れてるくらい同じことを毎日繰り返している。
もちろん蒼太は日々目覚ましく成長しているのだけれど、だからこそ、私の時間だけがカタツムリみたいに進んでるのかそうでないのかわからなくなる。
ダラダラしている智留と過ごす週末はなおさらそうで、胃の痛みを伴うほどのストレスを感じる。
それでも智留は、我が家の大黒柱だから。
妊娠して仕事を辞めてからというもの、稼いでない負い目もあって多少のことは黙って見ないふりをしてきた。
なんだかんだと、智留が働いてくれるから、我が家は回っているのだ。
だから休みの日くらいは好きにさせてあげようと自分に言い聞かせていた。
だって智留は、我が家の大黒柱なのだから。
それなのに、会社を辞めて大学に行くなどとふざけたことを。
しかも、あの言い方! アニメの主人公にでもなったつもりなのだろうか。
もし智留が前々からそのことで思い悩んでいたとして、迷って悩んで思い切って打ち明けたのだとしたら、あんな言い方にはならないはずだ。
単なる思いつきと勢いだけで、家族の運命を変えるような発言を軽々しくしたのだ。
あの時、私の中の不満因子が、ポップコーンが次々に弾けるみたいに頭の中で爆発した。
罵詈雑言が頭を駆け巡り口から溢れ出しそうになったところで、どういうわけか脳みそが一回転したような感覚になり、感情が変な風に着地した。
ふっと息が漏れて感情が空っぽになったような。
こんなことは、これまでの智留との結婚生活で初めてだった。
いや、人生でも初めてだった。
これをキレると呼ぶのかもしれない。
そこから後、智留と何を話したか、あまり覚えていなくて。
ただただ、そこから離れたいという一心で、気づけば雄太を連れて実家に向かっている。
ほんの一時間前の私はこんなことになるなんて夢にも思っていなかった。
当たり前のように結婚して、当たり前のように子供を産み、当たり前のように夫婦で年老いていく。自分がその既定路線から外れるなんて、思いもしなかった。
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