一話

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神に見放された地下牢に鉄錆びた臭気と饐えた匂いがこもる。 糞尿垂れ流しの石床に鎖を巻かれ横たわっているのは全身傷だらけの青年。 下半身には辛うじてズボンを纏っているものの上半身は裸に剥かれ、至る所にみみず腫れができていた。 リルケ村の薬師、ダミアン・カレンベルクはもうすぐ生涯を閉じようとしていた。 ダミアンが囚われた地下牢には窓がない。よって一条の日も射さない。 一日の訪れを告げるのは拷問吏の靴音と閂が外れる音だけ。次第に時間の感覚が麻痺し、痛みに侵された思考が混濁し始める。 「うっ……」 鎖を引きずり虚空を掴む。右瞼は無残に腫れ塞がって、視界が半分奪われていた。 地下牢にはおどろおどろしい拷問具が配置されていた。 三角木馬、鉄棘の生えた椅子、等身大の磔台……全て異端審問に用いられる道具。どれもに使用済みを示す、どす黒い血痕が染み付いている。ダミアンの前の虜囚に使われたものらしい。 先客の運命は今さら聞くまでもない。遠からず後を追うさだめだ。 顔も名前も知らない虜囚に黙祷を捧げ、冥福を祈る。 石床に血の筋を曳き、白い爪が落ちていた。拷問吏に剥がされた生爪だ。 「……これじゃ薬草は磨れない、な」 目の前に右手を翳す。 脂じみた前髪の奥、弱々しい笑みが浮かんで消えた。 不浄な闇が自我を溶かす。 力尽きて手を下ろし、大の字に仰臥する。 「けほっ!」 顔を傾け水を吐く。肺には先ほど飲まされた分がまだたまっていた。鼓膜は水圧で詰まりよく聞こえない。 もっとも地下牢で聞こえる音といえば、自分自身の息遣いを除けばネズミの鳴き声と拷問吏の足音位のものだ。 幻聴でもいい。 ヴァイオリンが聴きたい。 懐かしい旋律を反芻する。 「かはっ、ごほっ」 喉の粘膜が切れたか、血痰まじりの咳が止まらない。 身を丸めて激しく噎せる。鎖が軋んで擦れ合い、虜囚の惨めさを引き立てる。 脳裏を過ぎる走馬灯が運命の少女の面影を連れてくる。 泡沫の如く弾けては結ぶ記憶。それはよく知る少年の顔にすりかわり、凍えた胸に痛みを呼び覚ます。 ダミアン・カレンベルクは地方領主の三男坊として生まれた。 母はお産と同時に死に、乳母や召使いに育てられた。兄たちとは年が離れていた為、親しく遊んだ記憶もない。 幼い頃のダミアンは孤独だった。使用人たちは一部を除いてよそよそしい態度をとる。父は末っ子に殆ど無関心だ。 何故冷遇されるのか、疑問が氷解したのは八歳の頃。女中たちの噂話を偶然聞いてしまったのだ。 「ねえ知ってる?領主さまがダミアン坊ちゃんに冷たいわけ」 「ああ……奥様の不義の子なんでしょ、ここじゃ有名よ」 「馬丁とできてたそうね」 「でもさあ、旦那さまの子って可能性もあるんでしょ」 「奥様似だからねえ、どっちかわかんないのよ。まあ跡継ぎは足りてるし、ね」 密やかに囁き交わす口吻には下世話な好奇心と同情が含まれていた。 自分は祝福された子供ではないのだと、その瞬間思い知らされた。 ダミアンは領主の妻が馬丁と姦通して出来た子だった。 事実はわからない。あるいは領主の種かもしれない。さりとて確かめる術はない。 父が振り向いてくれないのは、兄たちに劣る出涸らしだからと思い込んでいた。 自分の存在自体が汚点だったら、このさきどれだけ努力しても無駄じゃないか。 誰にも知られず静かに絶望したダミアンは、すっかり内向的な子供になり、他人との関わりを避けるようになった。幸いにして領主の館には多くの蔵書があった。首都の大学を卒業した父の蒐集品だ。ダミアンはそれを読んで日々を過ごした。 転機が訪れたのは十四の時。 窓を開け放して勉強していたら、そよ風に乗ってヴァイオリンの旋律が流れてきた。 村外れにジプシーが野営していると使用人が噂してたのを思い出し、出来心で屋敷を抜け出す。 初めての冒険にダミアンを駆りたてた動機は純粋な好奇心。彼はまだツィゴイネルを見た事がなかった。幌馬車で旅暮らしをしている、自分たちとは肌の色が異なる人々らしい。収穫祭で楽器を奏じ、歌い踊って生計を立てているらしい。 その話を聞いて想像を膨らませた。領主の館で窮屈な毎日を過ごす少年にとって、ツィゴイネルは自由の象徴だった。 父には接近を禁じられていたが、時折風に乗り流れてくる音楽は、鬱々と塞ぎこみがちなダミアンの心を浮き立たせた。 どんな人が弾いてるんだろ。 近くで聴いてみたい。 そんな欲求を禁じ得ず広場へ赴き、ヴァイオリンを奏でるツィゴイネルの少女と出会った。 名前はゾラ。 ロマの言葉で夜明けをさす。黒く艶やかな巻き毛を背にたらし、星宿す夜空のような御影の瞳を輝かせた、とても美しい少女だった。 一目惚れだった。 ヴァイオリンを弾き終わると同時に、心からの拍手を贈っていた。 ダミアンとゾラは瞬く間に惹かれ合った。 ダミアンは家族に疎まれている。ゾラは早くに両親と死別していた。似た境遇や立場は共感を生み、互いをより深く理解するきっかけとなる。 即ち、孤独が共鳴した。 「ただでヴァイオリンを聴かせたげる代わりに字を教えてよ、読み書きできるんでしょ。あなた達の言葉で夜明けはなんて書くの」 歌うような抑揚で乞われ、喜んで知識をさしだす。 ジプシーの多くは文字を書けない。当たり前といえば当たり前で、中世ヨーロッパにおける平民の識字率は低い。 しかしゾラは勉強を好み、ダミアンが持参した羊皮紙に繰り返し自分の名前を書いて言うのだ。 「ツィゴイネルにも教養は必要よ、世界の見え方が変わるもの。言葉や計算を覚えれば商人にだまされる事がなくなるし、もっと賢く生きられるでしょ」 「僕もそうおもうよ。君は正しい」 「でしょ」 「ホント言うとさ、ツィゴイネルってもっと怖い人たちかなって思ってたんだ」 「絶世の美少女を捕まえて失礼ね」 「ごめんってば。また何か弾いてよ」 広場にとまった幌馬車の影で、オークの大木が葉を茂らす石垣の裏側でおふたりは逢瀬を重ねた。 木漏れ日が斑にさす下で、少女は矢継ぎ早に質問する。 「この木はなんていうの」 「オーク(アイヒェ)。雷神ドナーに捧げられた神聖な木」 「たくさん実がなるのね。綺麗なオリーブ色」 「食べられないよ」 「あれは?」 「ヤドリギ。実は小さくて可愛いけど毒がある」 「物知りね。あっちは?」 「菩提樹(リンデ)。あの下で古代の裁判が行われたんだ、別名裁きのリンデ(ゲリヒトリンデ)とも呼ばれている」 「種は莢に包まれて風に乗る。私たちと一緒の旅暮らし」 悪戯っぽく微笑み、妖艶な流し目を投げてよこす。 「ねえ、ダミアン。もしも、もしもよ?私たちに子供ができたらなんて付ける?」 ダミアンは赤面するも、真剣に考え込む。 ふたりはしばしば語彙を交換した。ダミアンはロマの言葉や文化に馴染み、ゾラはダミアンの教養を吸収し、互いを尊重することを覚えた。 だからこそ、未来を託す子供に付ける名前はすぐに決まった。 「世界(ミルセア)」 ダミアンにとってゾラは、自身を新しい世界へ導いてくれた存在だった。 少年と少女の恋は燃え上がり……領主の反対で潰された。 「ツィゴイネルの娘を娶りたいだと?正気かダミアン、絶対に許さんぞ」 「何故です父上、ゾラはとても聡明で心の優しい子なのに。せめて一度会ってください」 「異端の血を家系に入れるなぞ想像しただけで汚らわしい」 「でしたら僕が家を出ます、それでいいでしょ。どうせいらないんだから父上や兄上だってそっちの方がすっきりしますよね」 「カレンベルクの子が幌馬車で旅暮らしなど言語道断だ!いいか、お前は連中の本性がわかってないんだ。ツィゴイネルは盗みたかりを生業とする恥知らずどもだ、そのゾラとかって小娘も例外じゃない、お前をたぶらかして遺産を狙ってるに違いない」 「ゾラを侮辱するな!父上がなんと言おうと絶対結婚する、一緒に生きてくって決めたんだ。子供の名前だって決めてある、ツィゴイネルの名前だよ」 「貴様孕ませたのか!?」 直談判したのが間違いだった。 翌日広場に行ってみるとツィゴイネルの幌馬車は消え失せ、もぬけのからになっていた。ゾラの姿はどこにも見当たらない。 父の差し金だと気付いた時には遅かった。 若かりし情熱の赴くままダミアンとゾラは結ばれ、大人の都合で引き裂かれた。 少年はまた独りになった。 体裁を重んじる領主は三男坊の不行跡に激怒し、彼を遠く離れた村の修道院に放り込んだ。 もとよりダミアンは信心深い少年だった。カトリックへの信仰心篤く、聖書の勉強も熱心だった。 だがしかし、ゾラとの出会いと前後してカトリックの教義に疑問を呈す。聖書は異教徒を公然と非難している。ゾラは洗礼を受けておらず教会にも通ってない、故に異端の誹りを免れない。 だけどダミアンには、どうしてもゾラが火炙りにされてしかるべし罪人とは思えなかった。 聖書には本当に真実が記されてるんだろうか。 神様だって間違える事があるんじゃないか。 僕のように。 父のように。 胸の奥底に芽生えた疑念は日毎に育ち、神への信仰心が試される。 それでもまだ、ダミアンは神を信じていた。 修道院での日々は表面上穏やかに過ぎていく。清貧と禁欲が此処の戒律。厳しく細やかな規則も順応してしまえばさして苦でない。 修道僧ならびにその見習いたちは中庭で薬草を育て、あるいは蜂を飼い蜜を採り、自給自足の暮らしをしていた。 ダミアンは父に幻滅していた。既に実家に見放された身、将来は修道士になる道しか残されてない。 一方でゾラへの未練に囚われ、毎晩の如く夢を見ながら、脱走計画は思い描くだけで実行に移せずにいた。 「おはようございますダミアン、院の暮らしには慣れましたか」 「はい、漸く」 「良い心がけです。精進なさい」 老修道士が柱廊ですれ違いざま、肩を叩いて去っていく。 食堂では先輩修道士が隣の席に招いてくれる。 「こっち来い。ルーベン領主の三男坊なんだって、お前。何やらかしてこんなシケたとこ送られたんだよ」 「ツィゴイネルの子と仲良くなっただけだ。悪いことはしてない」 「ソイツは驚いた。大人しそうな顔してやるじゃん、見直したぜ」 修道院の食事は質素だった。パンと副菜二品の他は野菜に果物、蜂蜜酒が付くだけで育ちざかりには物足りない。 「私語は厳禁ですよ」 「すいません」 修道士に厳しく注意され、おどけた顔で引き下がる先輩に頬が緩む。 生き別れたゾラに続き、二人目の友達ができた。 修道院の生活は単調だ。ひたすら修行と祈りの日々。畑を耕し蜂を育て、食事をとった後は就寝する。 半年が経過する頃にはゾラの面影は薄れ、修道士になるのも悪くないと思い始めていた。 その矢先、体に変化が起こる。
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