八話

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八話

「気絶したか」 「行くぜ。反応なきゃツマンねえ」 拷問吏たちが騒々しく去ったあと、地下牢に一人残される。 ダミアンは虚ろな目を宙に据え、ひび割れた唇を動かし、嘗て聴いた旋律を口ずさむ。 悪魔はミルセアのヴァイオリンを持ち去っていた。 また守れなかった。 俯けた顔に会心の笑みが浮かび、伏せた目が意志の光を灯す。 「……当てが外れた、な。それを弾けるのはあの子だけだよ」 アレはミルセアのヴァイオリンだ。 リルケ村の薬師、ダミアン・カレンベルクの一番弟子の宝物。 「他人の為に弾きたくないって、ミルセアはそういったんだ。あの子は僕の為に、僕だけの為にヴァイオリンを弾いてくれる。人まねが得意なまぬけな小悪魔さんは、一生かかったって最高の音を引きだせないよ」 ざまあみろ。 「一生お預けくらってろ」 饐えた地下牢で人知れず勝ち誇り、虚脱しきって目を瞑り、まどろむ。 次に生まれ変わるならヴァイオリンになりたい。 あの子のヴァイオリンに宿って、あの子の弓で弾かれて、あの子の為に世界を訳してあげるんだ。 僕の言葉で。 君の為に。 苛烈な拷問に負けて隣人を売らなかったのは愛する息子の為。 ダミアンが告発した隣人が別の隣人を売り、その隣人がまた別の隣人を売り、延々憎悪が連鎖する。永遠に魔女狩りが続く。 もし今悪魔の力を借りてミルセアを逃がす事が叶っても、その先でまた災禍に巻き込まれたら…… あるいはミルセアの子孫が惨劇に見舞われたら、僕にはどうすることもできない。 だから今、ここで断ち切る。 僕一人の力じゃ歴史を変えるには及ばずとも、命をかけるに値するこの沈黙は、巡り巡って世界を良い方向に導くはずだ。 『いいかいダミアン、魔術の濫用は禁物だよ。アレは最後の切り札だ。生涯使わずすませられんならそっちの方がずっといい、だがもし使うときがきたら』 師匠。 『魂を売り渡しても悔いがないもののために使いな』 これは僕たち人間が使える、ささやかすぎる魔術だ。 神様は音楽の中に宿る。 あの子のヴァイオリンは世界に福音をもたらす。 西暦1472年10月11日、リルケ村の薬師ダミアン・カレンベルクは異端として火刑に処された。 享年29歳。
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