10年後

2/2
2人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
「いや、思ってないな」    モップを担ぎなおしながら、サイロはそう答えた。  この10年間、ずっと仕事に追われ、ゆっくりと考えている暇もなかった。しかし、そのせいかもしれない。気づけば、頭の中から願望が消えていた。  かつて、自分は何を切望していたのか。それすらも思い出せなくなって久しい。 「それは良かった。無事に善人となり、契約する気もなくなっていただけたようですね」  考え事を遮るような悪魔の言葉に、サイロはばっと顔を上げた。 「まさかお前、最初からそれが狙いで──!」 「もちろんですとも」  非難の色を込めた視線を投げつけるものの、悪魔は悪びれる様子もなく気怠げに手をふった。 「最近、魔界でも過労が増えてきていましてね。私も、無闇に契約者を増やしたくないんですよ」 「じゃあ、あの時言っていた10年間の善行云々とやらは、必要なかったってことか?」 「そうですよ。元々魔界じゃ書類だなんていっさい意味を持ちませんし、あれはただの白紙を渡しただけです。あ、ちなみにこれも白紙ですよ。文具店から1枚かっぱらってきました」 「窃盗すんなよ」  思わず突っ込むものの、悪魔はいっさいダメージを受けず、ひらひらと手を振った。 「いいじゃないですか、悪魔なんですから。ということで、10年間お疲れさまでした。本当は契約できたのに、無駄に悪魔の言う事なんか真に受けたせいで10年を棒に振っちゃいましたねえ。どうせ野望とか叶えたかったんでしょうけど、結局は甘ったれ人間ですね」 「呆れたな。そこまで叶えたくないものだったのか、俺の願いは」 「いいじゃないですか。我々は過労死はしませんが、働きすぎは嫌なのです。絶対にね」  ばちんとウィンクをして、悪魔は言った。普通に気色悪い。そう思いつつも、サイロは礼を口にした。 「・・・・・・ありがとな。お前のおかげで、願望に縛られてがんじがらめになることもなくなった。これからも、ここで働いていくよ」 「ええ。期待しております」  その言葉を最後に、悪魔は黒い煙とともに姿を消した。  辺りに広がるのは、普段と何一つ変わらない廊下の風景。  床はゴミと汚物で汚れていて、掃除にはしばらくかかるだろう。  それでも、嫌悪感はほとんどなかった。  何かをやりきったような爽快感と僅かな高揚感が、すっきりと晴れた心のなかに残っていた。 「よし、やるか」  担いだモップをおろし、サイロは腕をまくった。  窓の外には、満天の星空が広がっている。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!