酒と女中と霧雨堂

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 私はお酒にはとんと疎い。  銘柄も酒類の区別もほとんどさっぱりだ。  だけど、男はその一升瓶のラベルを一瞥すると、今度はおもちゃをもらった子供のように高らかな声を上げてわあっと破顔した。 「ちゃんと取っていましたよ」  そしてマスターは男にそう告げた。 「主は、分かっとる!」  ぐいっと突き出したマスターの手から、男は一升瓶をぎゅっと受け取った。  そして瓶の蓋を親指でぽんっと抜くと、そのままラッパ飲みの要領でぐいっとそれを傾けた。  確かに、私はお酒飲みじゃない。  でも『一升瓶のお酒』の飲み方が普通はこうじゃないっていう事くらいは分かってる。  自分の中でも目まぐるしく感じるくらい、私はこの男に対する気持ちを測りかねていたが、その中でも嫌な気分だけは不思議と湧いてこなかった。  でも――少なくとも『今のご時世向きの人』じゃないと思う。  『なんとかハラスメント』とか、多分このひとは言葉すら知らないだろうなという無闇な確信すらあった。  見ていると、マスターも左手で一升瓶の蓋をねじり開け、やれやれといった表情で――これまた、ラッパ飲みのようにして中身をぐいとあおった。  その用を見ていた男が、にやりと笑った。 「何本用意しとるんじゃ、主ゃ」 「これだけですよ」  応じてマスターはそう答えた。  それは男からすると不意を突かれた回答だったようで、瞬間その目がまん丸くなった。 「うちは喫茶店ですから、本来お酒は用意していないんです。でも貴方がいつか来ると思ったから、あのときのこのお酒を一本ずつ備えておいた」  そう続けたマスターの言葉に、男は複雑な表情を見せた。  がっかりしたような、合点がいったような。  そしてその目が一度またちらりと私を見る。  ――お邪魔だったかな?  何となく、そう感じて私が半歩後ずさると、男は即座に手のひらを私に突きつけて申し訳なさそうな顔をした。 「ああ、あやめさんと言うたか。  気にせんでええ。そこに居っとっておくれ。  いや、居っとってほしい。時間はかけん」 「どうするんです?」  とマスターが男に尋ねた。
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